イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月11日(日):七度を七十倍する迄

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エスは七度を七十倍するまでにゆるしなさいと言われた。それは495回までまでゆるして、それ以後は仕返してもよいということではなく、どこまでもゆるしていくと言いうことである。これは、自分がどこまでもゆるされている者だということを忘れるなということである。自分がゆるされた存在であるということを忘れることから、人をゆるさないという行為が出てくるのである。・・・・・・

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一万タラントの話も、現実には起きて来ないと思って聞き流すが、本当にあれほどの借金がゆるされたらうれしいし、人もゆるしていこうということになると思う、イエスが幼子のようになりなさいと言われたのは、自分が神からゆるされなければ生きていくことの出来ない小さな存在であり、滅んでいくべき存在であることを知りなさいということである。・・・・・・・・・

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神が自分の為に大事なひとり子をくださったといいうことに対して、自分が最も大事にしているものをささげていったときにその教えが事実になってくるのである。自分の事実となるためには、それにこたえていく具体的な生活をして行かねばならない。・・・

献金などもそうであるが、なぜ献金するのかと聞かれたとき、費用がいるからだと考えるのはまちがいである。献金は、会費やカンパ、分担金ではない。「教会でこれだけ要るりますから、ささげてください」というのは間違いである。これだけの予算になりましたから、皆さんささげてくださいとはいいやすいが、予算のために私たちはささげていくのではない。・・・・・・・・

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私たちの教会の献金は、もっと奥深い意味をもっていると思う。それは、イエスが私たちのために死んでくださったということに対する神への応答でなければならない。・・

そういう信仰の筋が、教会の運営や何かになってくるとぼやけてしまう。だから教会はいつまでたっても信仰の生きた証がなされないのであると思う。・・・・・・

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私たちがささげている献金が、自分の身を痛めるほどのものかどうかを考えて見ると、痛まない程度にという便宜主義で、してはいないだろうか。神はイエスをこの世に送り、ご自分の手で十字架にかけるということは、痛まない程度などというものではない。大事なことは、私たちがイエスの十字架に、神の愛に、事実をもって応答することである。そこに教会生活があると思う。(榎本保朗師・一日一章・マタイ18;22節)  

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上記の文章は、榎本保朗師の新約一日一章であるが、本文はご子息の恵先生が、編集再発行したもので、保朗先生の書かれたものを、約半分に短縮してある。読みやすいように、大幅にカットしてあるが、やはりどこかしらもの足りなさを感じる。それでもあまりケチをつけると、今度お会いした時バツが悪かろうから、止めておく。いずれ。あの琵琶湖のほとり、アユラムセンターを尋ねる予定でいる。娘さんたちからもはがきが来ていた。3年前。日光オリーブの里で、アシュラムの集会があり、出席した。・・・

先生と張り合うつもりはないが、「七度を七十倍」と言われたイエスのお言葉は、弟子たちに、また私たちに、「人を裁き、赦す権利はあなたたちは、持ち合わせていないのですよ」といわれたものと理解している。「あなたたちは何処までもゆるし続けなさい」。主は私たちにそう諭しておられるのであろう。

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チョットあなた毎日遊んでばかりじゃ駄目よ・・ハイ、ハイ。お嬢様・・・