イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月15日(木):ヨハネの福音書 21章について (1)

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どの様に考えて見ても、ヨハネ21章は奇妙な章である。福音書は20章の最後で終わっており、21章でまた新たに始まっているように見える。特別にいいたいことがない限り、既に結びの言葉を付した福音書に、この21章を付け加えるようなことは誰もしなかったはずである。私たちはヨハネ福音書の中にしばしば二つの意味、つまり、表面にある意味とその背景にあるもっと深い意味、があることを知っている。従って、この章を学ぶ場合にも、なぜそれが、すでに完結したしたと思われる福音書にこのような奇妙な仕方で付加されたのか、その理由を見いださなければならない。・・・・・・・・

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この物語を書いたのは、ガリラヤ湖の漁師たちのことを知っている者だったに違いない。夜間が最も漁に適した時間だった。トムソンという人が『聖地と聖書』の中で、夜間操業のことについて述べている。「ある種の漁業は、いつも夜間に行わる。それは美しい光景だ。あかあかと燃える松明をつけて、きらきらと照り返す水面を小舟が滑るように走っていく。男たちは獲物を見つけるまで、食い入るように水面をにらんでいる。時々、彼らは電光のような早業で網を投げ、やりを飛ばす。時には疲れ切った漁師たちが、朝、むっつりと黙りこくって港に帰ってくる。夜通し働いたが何の獲物もなかったからだ」。ここでの漁は、奇跡として記されていないし、そういうつもりでもない。・

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ここで記されていることは、今日でもこの湖で起こっていることである。この舟がが岸からわずか90メートルほどしか離れていなかったことを思い起こそう。モルトンは、二人の男たちが湖岸で漁をしている様子を書いている。一人の男が岸から踏み入り、鈴付きのの網を水に投げ込んでいた。「しかし、幾度やっても、網は空のままで上がって来た。網を投げるところを見るのは、美しい光景だった。毎回、きちんと網をたたみんだ。網は小気味よい鈴の音をならして空を舞い、正確に水面に落ちた。同時に、小さな鉛のおもりが湖面を打ち、小さな波紋をつくった。再び投げようと投げようと構えていた時、仲間がと手の上から叫んで左に投げてみるように言った。彼はすぐにそうした。それからそっと網をを引き揚げてみると、魚がその中であばれているのが見えた。手綱を持った男が岸にいる者の指示によらなければならないことは、しばしば起こる。岸にいる者は、左に投げよとか、右に投げよとか言って、彼に指示を与えている。なぜなら、水が澄んでいるときには、岸からさかなの群れが見えるが、船にいる者には見えない、ということがよくあるからだ」。イエスは今日でもしているように、漁師である友人たちのために案内役を買ってでたのである。・・・・・・・・・・

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彼らがイエスだと気づかなかったのは、もやが立ち込めていたためであろう。が、イエスを愛していた弟子の目はするどかった。彼はいちはやくそれが主であることを知った。ペテロはそれが主であることを知ると、あわてて海に飛び込んだ。ペテロが実際裸だったわけではない。操業中の漁師がいつもやるように、彼は腰布をつけていたのである。ところが、ユダヤ法によれば、宗教的行為をするときには着物をつけていなければならなかった。そこでペテロは、イエスのもとに行く前に、漁師の下着をつけたのである。一番先に、主に挨拶をしたかったからである。・・・・・・・

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 高校生の頃、同級生に連れられて、川で投網をしたことがある。慣れないと結構むつかしい、魚は、網に入るのではなく、エラが網にひっかり、取り込まれることをはじめて知った。何事も経験してみなければわからないことがある。