イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月16日(金):ヨハネの福音書 21章について (2)

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・・・・・・・復活の現実性・・・・・・

ここで私たちは、すでに完結した福音書になぜこの新しい章がつけ加えられたか、その最初の大きな理由について考える。この章が付け加えられたのは、「復活の現実性」を決定的にするためであった。復活のキリストの顕現は、弟子たちの見た幻影にすぎないという人々が多くいた。多くの人々は、そのような幻の現実性を認めたが。なおそれはあくまでも幻にすぎないと主張した。ある者はさらに進んで、それは幻影でなく幻想であったと幻想であったと主張した。しかし、福音書はわざわざ、復活のキリストは幻影でもなく幻想でもなく、また霊でさえもなく、真の人間であったと主張している。福音書は墓が空虚であったと主張する。また復活のキリストがまだ釘のあとと、そのわきに傷のあとがある真の身体を持っていた、と主張する。・・・・・・・・・・・

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だがこの物語はもう一歩進めている。幻影や霊が漁師たちに魚の群れを指し示すというのは、ありそうにないことだ。幻影や霊が炭火を起こしたりというのはありそうにない。幻影や霊が食事を作って与えたというのは、ありそうにないことだ。にもかかわらず、この物語が述べているように、復活のキリストがそれらのことをことごとくなされたのである。ヨハネが、イエスは戸が閉め切っていたのに、弟子たちにすかさず、「手とわきとを彼らにお見せになった」。(20章20節)と言い添えている。イグナチウスは、スミルナの教会に書き送った際に、そのことについてもっと決定的な伝承を伝えている。「彼が復活の後にも肉体をまとっていたことを、私は知っているしまた信じている。そしてペテロとその仲間たちのところへ来て、こう語った『わたしにさわってみなさい。そうすれば、わたしが身体のない悪霊でないことが分かるだろう』。彼らはただちにイエスにさわってみた。そして、信じた。というのは、彼らはその肉体と血とを確信したからである。・・・・復活の後、彼は肉体を持った者として、彼らと一緒に飲み食いをした」。・・・・・・・

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この物語の一番の、また最もはっきりしたねらいは、復活の現実性を浮き彫りにすることである。復活は幻影ではなかった。それは興奮した人間の想像から生じた虚構でも、霊や幽霊の顕現でもなかった。死を克服して凱旋したイエスその人に他ならなかった。

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 註:イグナチオスについては、2020年7月14日「神を宿す者」において書いています。月間アーカイブを検索して、お読みいただけます。また関連記事もありますので、同時にそれをもみて下さい。

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間のなくちえ子の運転免許証の更新があるので、実地審査の予行練習を、午前中、北欧の杜で練習した。あきれるほど、運転が下手で、どうしようもない。ただ、ひたすら「忍」の一字。