イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月17日(土):ヨハネの福音書 21章について ( 3 )

・・・教会の普遍性・・・

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しかし、ここには第二の偉大な真理が、象徴化されたかたちで述べられている。第四福音書においては、すべてものが意味を持っている。したがって、ヨハネが何の意味も与えずに、魚153匹という数字をのせることはまず考えられない。もっとも、舟に乗り込んでいた仲間で獲物を分けなければならなかったとか、数字が記録されたのは、ただそれが非常に多かったからであるとか、いろいろ説明がされている。しかし、洞察力をもつ者のために隠された意味を挿入する、あのヨハネの手法を考えると、この数字にもそれ以上の意味があると考えなくてはなるまい。・・・・・・・・・

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153という数字の意味について、多くの巧妙な説明がなされてきた。最も簡単な説明は、ヒエロニムスによってなされたものである。海には153種の異なった魚がいて、魚はあるゆる種類を含めた操業をあらわす。そこで、この数は、いつの日にか全世界の人々すべてがイエス・キリストに集められということの象徴である。ということである。しかし、私たちはさらに深い点に注意すべきである。この大漁は網の中に集められ、網はそれらを支えて破れることはなかった。網は教会をあらわしている。教会には、あらゆる国のあらゆる人々が入る部屋が用意されている。たとえ、彼ら全部入ったとしても、教会は彼らを支えるに十分な大きさを持っている。・・・・・・・・

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ヨハネはここで、彼独自の生き生きしたするどい筆致で、教会はあらゆる国のすべての人々をその胸に抱くことができるほど十分に広いのだと、語っているのである。教会の中には、いかなる排他性もない。教会の中には、いかなる色の差別も、精鋭主義もない。教会の抱擁は、イエス・キリストにおける神の愛に等しく普遍的である。網が地に引き揚げた者がペテロだったのであれば(21:11)私はここで、この章が福音書に付加された第二の理由に導かれるのである。

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