イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月17日(土):キリスト者の信仰と愛

(マタイの福音書5章43節~48節)

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ユダヤ人の学者はここを、「山上の垂訓の中で最も中心的な、また、最も有名な箇所」と呼んでいる。事実、この箇所ほど、人間関係についてのキリスト者の倫理を集約しているところはない。大抵の人は、これが本質的なキリスト教の実践であることを知っている。教会の門を一度もくぐったことのない人でも、これがイエスの教えであることを知っていて、この教えを、キリスト者と自任する人が行っていないと非難するのである。・・・・・・・・

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この箇所を学ぶにあたって、まず、イエスが何を言おうとしておられるか、弟子に対して何を要求しておられるのか探らなければならない。もし、この教えを実行するならば、何をしなければならないかを、はっきり知らなければならない。では、イエスの言われる、敵を愛する、とはどんなことであろうか。・・・・・・・・・

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エスは敵に対して、愛する者、最愛の者、近親の者を愛するように愛せよ、とは言われなかった。愛するという言葉が違うのである。近親者、最愛の者を愛するのと同じように敵を愛することは不可能であるし、また、正しいことでもない。これは違った種類の愛である。・・・・・・・・

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では、その相違とはなんであるか。近しい人、親しい人は愛さないではおられない。われわれは、愛に落ちる(恋愛するの意味)という表現を用いる。それは自然に起こってくるもの、心の中にある情から生じるものである。・・・・・・

しかし、敵を愛する場合は、情ばかりではなく意志が入ってくる。愛さないではおられないから愛するのではなく、愛そうと意志をもって愛するのである。自然のままの人間の本能的なものに勝利し、それを克服していく姿である。アガペーは愛そうと努めなくても自然に起こってくる感情ではなく、自分を苦しめ傷つける者に対しても、打ち負かされることのない善意を持とうと決意することである。アガペーは、誰かが言ったように、自分が好きになれない人、自分を愛してくれない人を愛する力である。・・・・

我々はイエス・キリストの力によって、怒り、憎しみという自然の感情を克服して、すべての人に対して打ち負かされることのない善意を持つときにのみ、本当に愛することができるのである。・・・・・・

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これはキリスト者だけが守ることの出来る命令である。ただイエス・キリストの恵みによってのみ、他人との個人的な関係において、このくじかれることのない慈悲と、打ち負かされることのない善意を持つことができるのである。キリストが心の中に住まわれるときのみ、憎しみが消えて愛がよみがえるのである。山上の垂訓を人々が実行するならば、この世は完全になる、という人がいる。しかし、イエス・キリストの助けなしに、この教えに従って生活しようと、願うことすら不可能なのである。キリストの命令に従うには、キリストが必要なのである。・・・・・・・・・

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最後にこれが一番大切なことであると思われるが、他の人がすることを黙って受け止めるばかりでなく、その人のために祈ることを命じている。誰かのために祈りながら、その人を憎むことはできない。自分の為に祈り、、また、憎みたいと思う人のために祈るとき、我々のうちに変化が起こる。我々は神の前で人を憎み続けることはできない。憎しみを取り除く最も確実な方法は、憎みたくなる人のために祈ることである。

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