イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月18日(日):ヨハネの福音書 21章について (4)

・・・キリストの羊を牧するもの・・・ (21節~19節)

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ここには、ペテロの心に永久に刻み付けられたに相違ない、一つの情景がある。

まず、イエスがペテロにした質問に注目しなければならない。「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。言葉だけに限って言うならば、それは二つのことを同じように意味していると言える。

(1)・・おそらくイエスは、舟や網や装備や漁獲を指して、ペテロにこういったことであろう。「シモンよこれらのもの以上にわたしを愛するか。それらのものをすべてあきらめ、出世の望みを捨て、安定した職と安楽な生活を捨てて、わたしの民とわたしの仕事のために永久に献身する用意があるか」。おそらくペテロにとってこれは、福音を宣べ伝え、キリストの群れを牧するために生涯を捧げよと、最終的決心をせまる挑戦だったであろう。・・・・・・・

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(2)・・おそらくイエスは、残りの弟子たちの群れを見ながら、ペテロに「シモンよ、この人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」といったことであろう。おそらくイエスは、あの夜のペテロのことをやさしく思い起こしていたことであろう。あの時ペテロはこう言ったのだ。「たとい、みんなの者があなたにつまづいても、私は決してつまづきません、他の者が何をしようと、私は問題にしません。私はあなたをいつまでも真実に愛します」(マタイ26;33)おそらくイエスは、かつて彼が、自分だけは真実ありうると考えたが、彼の勇気が期待に沿わなかったことを、ペテロにやさしく想いおこされたのだ。第二の意味が正しいと言えるだろう。なぜなら、ペテロはその答えの中で、なぜなら、ペテロはその答えの中で、もはや人との比較をしていないからだ。ただ彼は「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることで満足している。

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(2)・・イエスがこの質問を何回か繰り返したことに注目しなければならない。彼はそれを三度たづねた。それには理由があった。ペテロは三回主を拒んだ。そして主は三回ペテロに愛を肯定する機会を与えられたのである。イエスは、その恵み深い赦しの中で、ペテロに三回の愛の宣言をさせることによって、あの三回の否認の記憶をぬぐい晒せようとされたのである。

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(3)・・愛が何をペテロにもたらしたかに注目しなければならない。

愛は彼に職務を与えた。「もしあなたが私を愛するなら、わたしの群れを牧するために生涯を捧げなさい」、とイエスは言った。私たちは、他者を愛することによってはじめて、イエスを愛していることを証明することができる。愛は世界でもとも大いなる特権である。が、それはまた世界で最も大いなる責任でもあるのだ。・・・・・・

愛はまたペテロに十字架をもたらした。イエスは、ペテロに言った。「あなたが若かったときには、あなたのいきたいところを選ぶことが出来た。しかし、やがて人々が、あなたの手を十字架にひろげ打ち付ける日が来るであろう。そして、あなたが選ばなかった道に連れて行かれるであろう」。ローマにおいて、ペテロが主のために死ぬ日がやって来た。ペテロも十字架のもとへ行った。今からそれに釘付けされようとした時、彼は、そこに逆さにつけて欲しいと頼んだ。自分は主と同じような仕方で死ぬ価値はない、と彼は考えたからである。愛はペテロに任務をもたらし、愛はペテロに十字架をもたらした。愛は常に責任をともなう。もし私たちがその任務に取り組み、その十字架を受け入れる覚悟がないなら、真にキリストを愛しているとは言えないのである。・・・

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ヨハネがこの出来事を書き残したのは、決して意味のないことではなかった。彼がそれを書いたのは、ペテロがキリストのみ民の偉大な牧者であることを示すためであった。

初代教会においいても、人々はいろいろと比較したであろうし、またそれが避けがたいことであったろう。ヨハネは他の者たちよりも思想のひらめきがすぐれていたから、彼こそ一番えらい人だ、という者もいたであろう。ある者は、キリストのために地の果てまで出て行ったがゆえに、パウロこそ一番えらい人だ、と言ったであろう。しかし、ここではペテロもまたすばらしい働きがあったことが示されている。・・・・・・・

ペテロはヨハネのように、書いたり思索しなかったかも知れない。彼はまたパウロのように、旅行して冒険をしなかったもしれない。しかし、彼にはキリストの羊の牧者という、偉大な栄誉、貴い職務があった。ここに、私たちがペテロのあとに続く余地が残されている。私たちは、ヨハネのように思索をめぐらすことはできないかも知れない。パウロのように、地の果てまで出かけていくことはできないかも知れない。しかし、私たち一人一人は、だれかを守って踏みまよわぬようにすることもできるし、神の言葉の糧で、キリストの羊を養うことが出来るのだ。

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