イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月18日(日):ヨハネの福音書 21章について (5)

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・・・・キリストの証人・・・・(21節~24節。

この箇所は、ヨハネが相当の高齢に達するまで生きていたことを明らかにしている。 彼は、イエスが再臨するまで生きているといううわさが広まるほど、長く生きていたに違いない。 ところで、前の個所でペテロに地位が当てられたように、この箇所ではヨハネに地位が当てられている。 ヨハネのつとめは、まずキリストの証人となる事だった。

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繰り返しになるが、初代教会の人々も人物批評をしたに違いない。 やれパウロは地の果てまで行った人だとか、やれペテロはそちこち飛びまわって牧会した人だとか、人々はいろいろ指摘したに違いない。 ところが、高齢のため前線から全く身を引くまでエペソにとどまっていたこのヨハネの働きは何であっただろうかと、彼らはいろいろ考えたに違いない。 答えがここにあるのだ。 パウロはキリストの開拓者だった、ペテロは羊を牧する牧者だった。 しかし、ヨハネはキリストの証人であった。 ヨハネは、「わたしはこれらのことを見ました。 そしてそれが真実であることを知っています」。 ということの出来る人であった。・・・・

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今日でも、キリスト教に対する究極的な証言は、クリスチャンの体験である。今日でもクリスチャンは「わたしはイエス・キリストを知っています。そして、これらのことが真実であることを知っています」ということの出来る人のことである。こうして、この福音書は、最後に、教会の偉大な人物、ペテロとヨハネを取りあげている。そのおのおのに、イエスは職務を与えた。ペテロの職務は、キリストの羊を牧することと、最後にキリストのために死ぬことであった。

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ヨハネの職務は、キリストの物語を証し、長寿を全うして平安のうちに死ぬことであった。それは彼ら二人をして、名誉や名声のことで争ったり、敵対させたりするものでなかった。それは一方を大とし、一方を小とするものでなかった。それは両者を等しくキリストのしもべとした。人をして、キリストの定めたところで、キリストにつかえしめよ。イエスがペテロに「ほかの者にどんな務めが与えられようが気にかけるな。あなたの任務はわたしに従うことだ」と言われたように、それはまた、イエスが今日の私たち一人ひとりに言われている事でもある。私たちの栄光は、決して他の人々と比較されるものではない。私たちの栄光は、自分に割り当てられた能力に応じてキリストに仕えることにほかならない。・・・・・・・

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・・・・キリスト・・・・この無限なる人・・・・

第四福音書の著者は、この最後の章において、これらの偉大な真理を書いたのは一体誰のためであったかを、教会に示している。彼は復活の現実性と、教会の普遍性を想起させた。また、ペテロとヨハネは名誉を争奪し合う間柄ではなく、ペテロは偉大な牧者、ヨハネは偉大な証人である。ということも想起させた。そして今や彼は終局に至る。筆を置くにあたって、彼はもう一度イエス・キリストの輝きに、思いを寄せている。私たちがキリストをどれほど知っていようとも、それはほんの一部にしかすぎない。私たちがどのような驚異を経験したとしても、これから経験するであろう驚異に較べれば、物の数ではない。いかなる人間の範疇も、キリストを叙述する力なく、いかなる人間の書物も彼を捕らえるに不十分である。そこでヨハネは、イエス・キリストの数えきれない勝利、汲みつくすことの出来ない力、無限の恩恵を示すことによってこの書を閉じている。

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註:この21章の解説は1~5まで記してきたがこれはすべて。W・バクレーの著書からの引用である。読んでみて自分自身納得するところ、あるいは、疑問のありそうに思えること(ほんの少しだけだが)もあるが、聖書解釈の一つの手法、理解の仕方など、参考になることが多かった。

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