イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月19日(月):パウロの回心とその意味

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パウロはへブル語での名をサウロといい、ベニヤミン族の後裔で由緒ある家柄での出であった。彼の生まれたキリキヤのタルソは当時ストア哲学の盛んなところであった。パウロはこのような文化の中心地で育ったので、広くギリシャ的教養を身につけ、世界史的視野を持つようになったことは考えうることである。が、ギリシャ的教育を受けたとは考えにくい。むしろ彼はラビ的伝統ににそった教育を受けた。パウロは律法学者になるために、エルサレムに上り、当時有名な律法学者「ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について厳しい薫陶を受けた」(使徒22;3)。彼はへブル人のなかのへブル人として自分の血筋を誇りとし、ユダヤ教の律法を忠実に守ることによって約束を受け、聖なる者とされると信じ、パリサイ的な信仰に傾倒するその仕方は厳しいものがあった。・・・・・・・

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我々が使徒行伝を読むと東奔西走、息をはずませてキリスト者迫害のためいきりたつ二十四、五歳の若者を想像することができる。彼は、ステパノの殺害に賛成し、男女を問わずしばりあげ、獄に投じ、死に至らしめた(22;4)・・・・・・・。

パウロをしてこのような激しい迫害にかりたてた原因は、「メシヤが現れた」とするキリスト教の信仰ではなく、彼ら「キリスト教徒のためにこそ」メシヤが神から遣わされたとする主張であった。なぜなら大部分のキリスト教徒たちはいやしい身分の出であり、パウロからみれば彼らは律法に従順ではなく、ユダヤ的信仰からすればメシヤはまかり間違ってもそのような人たちのために来るとは思われないのであった。しかるに彼らは自分たちのためにこそメシヤが来たと説く。これ以上のヤハウェ神への冒涜はなく、これこそパウロの憤激をおこさせたものであった。それゆえ、キリスト者迫害のためにダマスコへの途上突如として起こったパウロの回心は、彼がこれまで軽蔑し、迫害してきたキリスト教徒のためにこそ救いの事実が送られたという認識への転回であった。この時から彼はキリストが来たのは律法に欠ける異邦人のためであるという信仰に立った。彼の回心は「義人の救いではなく罪人の救い」という、生きた信仰と神学とを学んだ。そしてそれはまさにイエスが生前繰り返し自分の使命について語った事柄でもあった。従ってパウロの信仰と神学とは正しくイエスを理解したものであり、信仰の神髄をエルサレム使徒たちやキリスト者に代わって表現したものであった。パウロはイエスの肉の姿に接することはなかったが、彼にはイエスと結ばれる内的連関があった。彼は人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと神によって立てられた「使徒パウロ(ガラテヤ1;1)ということが出来た。・・・・・・

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迫害の途上、復活のキリストに出会い、かえって迫害の対象であったものに捕らえられたというパウロの回心いかなる性質のものであるかは、今日推測する以外に道はない。それを伝える記事は資料的にも内容的にもさまざまな疑問を起こさせるからである。しかし、回心の記事にいかに疑いを持つとしても、疑い得ない一つの決定的なことがらが残る。その事柄とはパウロの内に生の転換が突如として起こり、彼はキリストにに捕らえられたということである。・・・・・・・

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「村の小さき教会」の賛美を聴いていたら、急に茂泉昭男教授の教会史を思い出した。本棚に残っていた。わずか200ページの小さな本だが、それをめくってこの箇所を書いた。・・今日もまた、午前中ちえ子の運転練習。絶望的な気持ちになる。どうしてこうなるの?。という運転の仕方。やはり、洞察力の問題のようだ、まぁ、講習は受かるだろうが、赤点ぎりぎり。

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