イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月11日(金):復活信仰

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古代エジプトの歴代ファラオにとって、死後の自分の魂が永遠の世界に入るか重大な関心事であった。中国の秦の始皇帝も、不老長寿の薬を求めた。釈迦の懊悩は「老、病、死」であった。ファラオたちは自分の体をミイラにして、よみがえりの時には、自分の魂がそのミイラに入ると考えた。始皇帝は、中国全土に臣下を遣わしてその薬剤を探させたが、49歳の若さで死んだ。釈迦の悩みは未だに未解決のままである。こうして古代の「賢者」たちの願望は、数千年経っても常に私たちの問題でもある。 

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インドのムンバイにタージマハールという壮麗な寺院がある。時の皇帝ジャハーンが若くして亡くなった妃マハル姫の廟堂として建立したものである。帝は国の財力が尽きるほどまでにして、この廟堂を建て、自分の為の廟堂は建立できず、愛妃の傍らに眠っているという。・・・・・・

最愛のものを失った時、人は必ず再会を望む、誰もがいつまでも生きられないことを知っているので、せめてかの地があるならば、それを望みそこでの再会を願う。

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ダビデがウリヤの妻バテシバに不義の子を生んだ時、神はその子に病をおくった。ダビデは、断食をして神の前に祈り、その子を助けてくれるように願った。しかし、神はその願いを退け、その子は死んだ。ダビデは言った。「私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私の元には帰って来ない」。復活信仰は、洋の東西を問わず、古来、人々の切なる願いである。

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エジプトのファラオも始皇帝も、釈迦もイエス以前の歴史上の人物である。しかし、彼らは次のイエスの言葉を聞いたなら、どんなに小躍りして喜んだであろうか。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか』ヨハネ11:25-26)

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こうして、人間の永遠の命に対する悲願である、「死」がイエスによって克服されたのである。イエスが単なる「騙り者」(偽りを言う人)であったならば、イエスの言葉は世界を覆うことはなく、弟子たちもそれを伝えるために、命を懸けることはなかったであろう。そして何よりも、世界の倫理基準の殆どがイエスの言葉をよりどころにしている。イエスの言葉が

世界を支配しているのである。

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6月4日(金)の朝は晴れていた。私たちは何時も、6時30分頃出かける。車で15分くらいの県立自然公園「北欧の杜」にウォーキングに出かける。私と妻ちえ子、それに犬のマルを軽トラックの荷台に乗せて出かける。それぞれに後期高齢者である。健康維持の為、公園の遊歩道を歩く、歩く。

後で振り返ると、マルの体調がよくなかったようだ、出がけに少し渋った。いつもなら出かける時は小躍りして喜ぶのだが、それがなかった。それでも2.6キロの周遊コースを小一時間ばかりかけて歩き帰って来た。

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午後からどしゃ降りの雨になった。私はしばらく書斎で本を読んでいたが、気がつくとマルがベッドから這い出して私のいるところまで這い出して来たらしいが途中の渡廊下の下でずぶぬれになっていた。急いで引き上げ、体を温めたがもう虫の息だった。もう声も出なかった。

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何時も頭をなでてやっているので、そこの毛だけは何時もぴかぴかだった。「マルよ、マルよ、死なないでくれ」。必死に懇願したが、鼻先をピクリと動かして、息をしなくなった。古代人が何よりも怖れた「死」が私にも現実となった。
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おとぎ話でなく、動物も天国へ行くのか、その時考えた。

 
『狼は子羊とともに宿り、

ひょうは子やぎとともに伏し、

子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、

小さい子どもがこれを追っていく。

獅子も牛のようにわらを食う。

乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、

乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

わたしの聖なる山のどこにおいても、

これらは害を加えず、そこなわない。

主を知ることが、

海をおおう水のように、地を満たすからである。

(イザヤ書:11章6節~9節)

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一羽の雀さえ神のゆるしなしに地に落ちることはないと言う

6月4日(金)の夜、夢に犬のマルが現れた。夢を見たのではなく、丁度葬式の肖像写真のように、マルが収まってしっかりした立ち姿でこちらを見ていた。一瞬の出来事だったが、そこにマルがいた。動きは全くなかった。
「お父さん心配しないで、僕は天国にいるよ」あたかもそう語りかけているようであった。私は朝になって主なる神が、私を憐れんで、マルの姿をもう一度マルに会いたいと言う私の願いを、主が叶えてくれたものだと悟った。私はそれで奴は天国にいてやがて再会を果たせると信じた。

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しかし、わたしはダビデのように強くはない。この一週間ばかり放心状態であった。いつもマルと走り回っていた野山や公園を、わけもなくグルグルと走り回った。そして、あぁ、ここで鹿とであった、リスを追いかけて行ったなぁ、オナラもしたな、犬もオナラをするんだと気がついた。滅多にしないが、2回ほど聞いた。一週間も過ぎると、気持ちにやや落ち着きが出てきた。現世においてかなわぬ再会を望むのは、愚かなことだ。いにしえ人のように、愛するものとの再会はやはり、天を見つめることだろう。その希望持ち続ける復活信仰の中に生きていくしかない。

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遥かに望む天の御国

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生後間もない頃のマル、後ろにいるのが母親のポン、北欧の杜で。