イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月20日(日):行う者の祝福

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『みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。…すぐに忘れる聞き手にならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます』

・・・・・(ヤコブ書1章22~25節)・・・・・

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みことばを聞くだけで満足したり、あるいは喜んで実行しないということは、何というひどい妄想でしょう。多くのクリスチャンの間で、神の言葉にきわめて規則正しく、そして熱心に耳を傾けていながら、しかも実行しないと言う風潮が何と一般化していることでしょう。もし、しもべが、聞いていながら行わないとすれば、すぐに処罰されることでしょう。にもかかわらず、クリスチャンは全く完全に欺かれてしまっているので、自分がよいクリスチャン生活をしていないことを決して悟らないのです。なぜ私たちはこのように欺かれているのでしょうか。・・・・・・

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その理由の一つは、人々が、神の言葉を聞くことの聴くことの喜びをキリスト教の実践であり礼拝であると、誤って思っていることです。知性は、真理が明確に提示されるのを喜びます。想像力は、真理が例証されることによって満足させられます。感情は、真理が明確に提示されることによって満足させられます。感情は、真理が適用されることによってかきたてられます。知識は、活動的な知性に快楽を与えます。人は、科学のある分野、例えば電気学を、自分に与えられる知識を楽しむために、それを実際に適用しようという意図を少しも持たずに研究するかも知れません。同じように、教会へ行き、説教を楽しんでいますが、神が求めておられることをしてはいないのです。・・・・・・

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この妄想のもう一つの原因は、私たちに善をする能力がないとする、ゆがめられた教義です。私たちを服従することの出来る者とし、罪を犯さないように私たちを守り、私たちを聖い者とするキリストの恩寵がほとんど信じられていないので、自分たちは罪を犯すことは避けられないと考えているようです。彼らは、「神は、自分たちから厳密な意味での服従を期待することは出来ない。なぜなら、自分たちがそのような服従をなし得ないことを知っておられるからだ」と感じているのです。この誤りは、神の言われたことをすべて行おうとする、ゆるぐことのない目的の根を切り取ってしまいます。それは、神の恩寵が私たちのうちになし得るすべてを信じ、経験しようとする熱心な願望に対して心を閉ざしてしまうのです。それは、罪のさなかにあって、人々に自己満足の状態を続けさせます。聞いていながら行わない・・・何というひどい欺瞞でしょうか。・・・・・

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聞いていながら行わない第三の理由があります。このことは、特に個人的に聖書を読むことに関係があります。聞いたり読んだりすることは義務であると考えられ、行うことは宗教的儀式の一つだと考えられているのです。私たちは、朝聖書を読むのに5分ないしは10分を費やし、思慮深く聖書を読み、読んだことを理解しようとしてきました。忠実になされた義務は、良心をくつろがせます。そして、満足感をも与えるのです。私たちは、神の言葉である聖書がなすべきだと言っていることを、文字通りに実行することに全力を傾けなければ全く無価値であると言うことについて・・・それ以上に、単に義務としてすることや、知識の獲得がもたらす、心をかたくなにする影響力についても・・・ほとんど何も知りません。ひどい妄想です。「み言葉を実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはなりません」

アンドリュー・マーレー(内なる生活)

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午後から犬のマルの兄弟に会いに行って来た。隣町の鉄工所に貰われていった一匹、前にも一度様子を見に行ったが大事にされていた。私のことを覚えているのか、随分親しげに寄ってきた。14歳になると言うからマルの二つ年上のお兄さんだ。マルと同じようなコブが背中にあった。おかしな遺伝があるものだ。

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