イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月11日(日):わたしを捨てよ

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『沈黙』は、遠藤周作が17世紀日本の史実、歴史文書にもとづいて創作した歴史小説。1966年に書きおろされた。江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人司祭を通じて、神と信仰の意義を命題に描いた。世界中で13か国語に翻訳され、遠藤周作の代表的小説。・・・・

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あらすじ・・・・

島原の乱が収束して間もない頃、イエズス会の司祭であり、高名な神学者であるフェレイラが、布教に赴いた日本での過酷な弾圧に屈して、棄教したという知らせがローマにもたらされた。フェレイラの弟子ロドリゴとガルベは日本に潜入すべくマカオに立ち寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴ潜伏キリシタンに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルベは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。・・・・・

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長崎奉行所ロドリゴは棄教した師の、フェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後の守、との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題をつき付けられる。奉行所の門前ではキチジローが何度も何度も、ロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは追い返される。ロドリゴは裏切り者キチジローに軽蔑しか感じなかった。

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神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれていたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響くいびきのような音をとめてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声はいびきではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り拷問は続くのだと告げる。ロドリゴは自分の信仰を守るのか、自ら棄教することによってあの者たちを苦しみから救うべきなのか、究極のジレンマを突き付けられるのである。そして、ロドリゴはフェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。・・・・・

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夜明けに、ロドリゴ奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけて彼の足を襲う激しい痛み。その時、踏絵の中のイエスが『踏むがいい、お前の足の痛さをこのわたしが一番よく知っている。踏むがいい、わたしはお前に踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。』と語りかける。・・・・・

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねて來る。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。『わたしは沈黙したのではない。お前たちと一緒に苦しんでいたのだ』『弱いものが強い者よりもくるしまなかったと、誰が言えるか?』踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えを理解したロドリゴは、自分が今でもこの国に最後に残ったクリスチャン司祭であることを自覚する。・・・・以上がウイキペディアのあらまし。

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私は、遠藤周作氏の書いたものはほとんど読ませていただいた。曽野綾子とその夫君である三浦朱門、この三人は、親しい友人同士であるともに喧嘩仲間でもあったようだ。朱門は、遠藤は文章がへたくそだ、俺が何度も書き直してやろうかと思った、などと言っている。遠藤も負けてはいない。朱門は世間知らずだ、奥さんの綾子に、小説を書くために、モーテルに一緒に行ってくれないか、何もしないから・・・と頼んだいうことをバラシている。どうやら、親友は悪友で、悪友は親友であるとは、古来からの「真理」であるようだ。・・・・・・・・

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とんだ脇道にそれたが、私の中に、奇妙な一つの言葉が残っている。

『わたしを捨てよ』この言葉がどこからわたしの脳裏に入り込んだか、はっきりしたことは分らない。考えられることは、多分この小説の中からではなかったかと思っている。これは紛れもなくイエスの言葉として残っている。もう何十年も前に読んだ「沈黙」なので、その中にこのイエスの言葉が書かれているかは定かでない。しかし、主題は、「わたしを捨てよ」であるような気がする。そして、イエスロドリゴに、「あらたな、わたしを見つけよ」そう語りかけたのであろうと思える。

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