イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月21日(土):ジョルジュ・サンド

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ショパンの生涯の中で最も影響を与えた女性が、ジョルジュ・サンドである。本名はオーロール・デユパンで、1804年にパリに生まれた。ショパンより6歳年上である。オーロールは父がなくなると祖母に引き取られるが、この祖母が住んでいたのが、後にショパンとサンドの愛の舞台となるノアンの舘である。18歳の時にカジミール・デュドバン男爵と結婚し、モーリスとソランジュという二人の子供をもうけるが、やがて別居し、その後、オーロールはジョルジュ・サンドという名前で小説を書き始める。

サンドは、男女関係や社会のありかたに対して、当時としては非常に革新的な考えを持っており、今でいうフェミニストの先駆けであった。その思想を体現するようにサンドは男装をして葉巻を吸うスタイルで知られた流行作家となる。・・・・・・

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  1. ショパンとサンドが初めて会ったのは、1836年10月末に、リストとマリー伯爵夫人が滞在する舘を訪ねた時のこととされている。ショパンははじめ、サンドのことをあまりよく思っておらず、帰り道では友人の作曲家ヒラーに「この人は本当に女性なのか」と語った。一方、サンドの方は、年下のショパンの貴族のように優雅な物腰とその美しい音楽に魅了された。二人が近づいていくには、出会いから二年程の時間を要した。1838年の冬、ショパンとサンドは、サンドの子供たちと共にマヨルカ島への逃避行へと出かける。地中海の西にあるマヨルカ島は気候の温暖な美しい島で、健康を害していたショパンにはうってつけの療養地としてここが選ばれた。着いた当初は爽やかな空気と輝く太陽に満たされ幸せな日々を送る二人だったが、やがて島が雨期に入ると、湿気と寒さのため、ショパンの病状は急速に悪化してしまう。ショパンは苦しみながら作曲を続け、そんなショパンをサンドは献身的に介抱した。1839年6月。マヨルカ島を出たショパンたちはノアンにあるサンドの舘に落ち着くが、以後1846年まで、ショパンは毎年、夏はノアンで過ごすようになり、バラードや、ノクターンピアノソナタ第2番「葬送」や第3番など、数々の傑作がこの地で生み出された。・・・・・

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    サンドはショパンの音楽的才能を愛し、ショパンがその才能を発揮できるようにと、献身的にショパンに尽くした。自らも小説家という仕事を持っていたにもかかわらず、雑事を全て引き受け実に細かくショパンの生活の面倒をみた。サンドなくしては、ショパンはあれほど多くの傑作を世に送り出すことはできなかったであろう。

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  3. 一方で、二人が純粋に男女の関係にあった期間はそれほど長くはなかったと考えられる。サンドはある時期から、ショパンの人生のパートナーとなったのであろう。しかし、男女の恋愛関係から離れていても、二人は互いに深い愛情と尊敬で結ばれており、その関係は10年ばかり続いた。二人が分かれる原因となったのは、サンドの二人の子供たちが大きくかかわっている。兄のモーリスは父親のように振る舞うショパンを毛嫌いし、一方母親に愛されていないと感じていたソランジュはあからさまにショパンに擦り寄るような態度をとったので、ショパンとサンドの間がギクシャクしていくことになとる。そして1847年に、ソランジュと彫刻家オーギュスト・クレザンジェとの結婚を巡二人の破局は決定的なものになる。

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  4. クレザンジェは、ペール・ラシェーズ墓地ににあるショパンの墓の彫刻を作った人物であり、才能はあったものの粗野で大酒飲みで借金を抱えていた。ショパンは二人の結婚に反対したが、サンドは家庭の問題だからとショパンに黙ったまま結婚を許してしまう。ところがその後、借金に追われたクレザンジェがノアンのサンド邸で乱闘事件を起こし、怒ったサンドがソランジェとクレザンジェを追い出してしまう。ソランジェはショパンに泣きつき、元々この結婚には反対だったショパンは、サンドに反省を促すような手紙を書き送った。
  5. 長い間、尽くしてきたショパンから、自分を非難するような手紙を受け取ったサンドは、裏切られたような気持になったのだった。
  6. サンドは次のような手紙を書いて二人の関係は終わりを告げる『さようなら、わが友よ、早く病気がすっかり良くなられまっすように。そして、この9年間の二人だけで占めてきた友情のこの変な終局を神様に感謝します。時々ご消息をお聞かせくださいませ。ほかのことは一切問答無用でございます』。

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  7. 別れた後もショパンはサンドの黒髪のひとふさを持ち歩き、サンドからの手紙は大切にまとめていたという。一方、サンドはポリーヌ・バィアルドに時折ショパンの様子をたずねたりしたものの決してショパンに会おうとはせず、それはショパンが亡くなるまで変わらなかった。盛大に行われたショパンの葬儀にも、サンドは最後まで姿を現さなかった。、
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ジョルジュ・サンドショパンの資料を集めたら、机に、100枚のコピーが積まれた。これはたまらん。丁度よさそうな紹介記事があったので転載した。昔、二人の恋物語を読んでいた。FBで、何度かショパンを弾いてくれる人がいて、久しぶりに、ショパンを聴いた。

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毎朝散歩で見かけるコンドル君、なかなかお行儀がいい。

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こいつは甘えん坊