イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月7日(火):わが力絶え果てば

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晩年、親鸞には多くの民衆が頼ってきた。なかでも貧しい農民がかれの教えにすがって助けをこうた。その時親鸞は農民のためにと、思わず念仏を口に唱えている自分に愕然とした。「なんと自分はまだおのれの力によって救いをもたらせると思っているのか」。かれは念仏を唱えることによって、なお救いを自分の手で引き寄せようとしていることを反省し、以後、

「念仏称名」をさえも救済には不必要なものと教えるようになったという。救われるために念仏を唱える必要はなく、むしろ救いを得ようとするための念仏こそ救いの弊害であると言う。親鸞の考えによれば、念仏とは阿弥陀に救われたことに対する感謝である。欲望深き煩悩者、悪人のわれをそのままで否応なく救う阿弥陀への汲めど尽きぬ応答、感謝として念仏は生まれてくるのである。・・・・・・・・

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聖書でも同じであると言える。信仰こそがわたしたちを生かす神へのあかしという。しかし「信仰によってのみ救われる」とは、救われるために信仰を身につけなければならないということではない。信仰を「どのように身につけたら良いか」「どれほどなら足りて、どれほどなら足りないか」

というものでもない。むしろそのような規定を課せられた信仰はもはや「律法」とかわりないではないか。救われるために「わたしたちの」信仰が必要なのではない。あの十字架のイエス・キリストに語られた、父である神の絶対的恵みの自由な呼びかけに対する喜びの応答や応えざるを得な愛、感謝としてこそ信仰はある。それは神の恵みに対して自由に生まれるもの、否応なしに湧き上がるものである。自分の信仰についてさえ思い悩むことこそ必要ない。信仰が薄いと嘆く前に胸に手を当てて考えれば、むしろ信仰のかけらもないないわたしをまずイエス・キリストが救い、愛されたことに思い当たらざるを得ないであろう。キリストによる救いは人間にとって、そんなばかなというくらい不可思議である。

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日本基督教団瀬戸栄泉教会前牧師 高岡 清)イミタチオ・クリステイに寄せられた巻頭言)より転載。2008年9月記。

高岡先生には、名古屋枇杷島教会の牧師であられた頃、お世話になりました。奥さまは、中村紘子に師事された声楽家でしたが、牧師夫人の道を歩まれました。私が帰郷したとき。秋田を見たい、十和田湖は新婚旅行できたことがある、もう一度見たいと、はるばる、我が家を訪ねてくれました。懐かしい思い出となっております。瀬戸の教会に転任され、そこへも一二度お訪ねしたことがあります。現在は退任され、名古屋市内にお住まいです。

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