絶えず祈りなさい。すべて事について、感謝しなさい。これはキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
(Ⅰテサロニケ5:17~18)
「私たちの祈りの生活は、祈りの御霊を求め、すなおに祈ることによって、少しずつ変えられていくものです。そしてついには、むつかしいことのように思っていた祈りの生活にはいっていってしまします」
(O・ハレスビー著:9月9日ーみことばの糧)
朝の祈りの尊さを、榎本保朗牧師の著作の中から教えられて、随分になる。曲がりなりにも毎日欠かすことなく続けられてきたことは、感謝なことである。口先だけでそう言うのではない。そこに神の導きと、恵みがなければ続けられることではなかった。・・・・・・
現実に祈りの「効果」を体験して来たからこそ、続けられているのだと思っている。この歳になるまでいくつかの試練があった。命の瀬戸際までいったときも、魔訶不思議な方法で生き延びてきたように思う。・・・・
特に3年間、冬期の出稼ぎに出た時はそうだった。工務所を経営していたが、不況の波で立ち行かなくなり、「恥を忍んで」出稼ぎに出た。幸いなことに大型自動車免許と危険物の免許を持っていたので、タンクローリーの運転の職にすぐに就くことが出来た。とはいえ、大型免許を取得してから、実際大型を運転て公道を走ったことはなかった。・・・・・
重油を名古屋港から積んで、中津川の製紙工場まで、運搬する仕事だった。行きは指導員が運転して、帰りには私に運転しろと言われた。初日からであった。誰にそんな芸当ができるものだろう。・・・・・・・
私はただ、ひたすら神に頼らざるを得なかった。「朝の祈り」は神の御目にとまっていた。私は、朝毎に祈り、そして出陣する武士のように、朝毎着衣を新しくした。事故に遇ったとき、見苦しい肌着を見せるわけにはいかなかった。危機一髪ということが何度もあった。その度に朝の祈りを思い出した。本当に信仰の鍛えられた経験だった。・・・・・・・
現在は平和な日々を送っている。それでも朝の祈りは欠かさない。この春から、妻も加わるようになり、二人で祈っている。牧師の仕事の大半は執り成しの祈りにあると思う。