イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月11日(火):祈り

f:id:dotadotayocchan:20200328094203j:plainもしイエスという方が私たちと対等くらいにの本当にちっぽけな方で、その方のことを書いていても、「世界」はおろか私の貧相な書斎でも収まるという程度のものであれば、一年、二年、三年で卒業したという事になるでしょう。しかし、イエスという方は、知り尽くせません。私たちは卒業したと言ってはならないのです。たとえ、スランプに陥っても、たとい疑いが起こっても、それは、まだ知り尽くしていないからです。もっと長く、ずっと信仰し続けるなら、汲めど尽きぬ泉がこの方にはある。これを福音書の読者に注意したいのです。・・・

どうか、私たちが、このような豊かな知恵と知識を隠し持っておられるお方の胸に、一層近く寄りかかりまして、この方について私が今だ悟れていない味と言いますか、私がまだ今の段階では味わっていない味わいというものを、また新しく味わわせていただくことによって、いつまでも、証し、殉教の度を続けて参りたい、と願うのであります。

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・・・・・祈りましょう・・・・・

すべての造られた物の造り主であり、生きとし生ける者の命の源であり、知恵と知識の源であり光であり、そのような無限の富を持ち給うにもかかわらず、己をを低くして私どものために世に下り、十字架にかかり、私どもの贖いとなってくださった、愛しまつる主イエスよ。

あなたが、私どもにご自身の一端を示し、限りない愛のひとふしを明らかに示してくださいまして、『わたしに従ってきなさい』と召してくださいますことを、心から感謝いたします。・・・・・・

どうぞ、私どもが、自分に求められております、生涯たえざる求道と信仰の旅を、脇目もふらず続けることに、いよいよ豊かに主イエスの恵を汲み。いよいよ忠実に主の証人となり、生くるも死ぬるも主のものとして、殉教者の歩みを、生涯忠実に歩み通すことができる者と、

ならしめてください。・・・・・・

私どもの心に、時として起こりくるところの疑いや、あるいは不信の思いを、あなたが取り除いて下さいますように、乞い願い奉ります。自分自身と他人を見るのではなくて、無限の富を給う主イエス・キリスト、あなたを見つめて、主に従い行く者と、ならしめてください。

・・・・・・アーメン・・・・・・

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(榊原康夫著:ヨハネ福音書の講解;最終章の祈り)