イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月12日(水):ヨハネの黙示録について

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説教者の王C・H・スポルジョンはある時、批評家から聖書について難問を投げかけられた。その人は、得々とこう尋ねた。「ところで、ここのところはどういう意味かね。」スポルジョンは、いつものようにまばたきをすると、こう答えた。「どうという事はありませんよ。そこに書いてある通りの意味ですから」。よく公の集会の後などに熱心な人がやって来て、純粋な気持ちから「ヨハネの黙示録の意味するところは何ですか」などと聞くことがある。その時には、先の答えがいかに適切であるかが分かる。と同時に、こう答えるのも賢いと思う。「答えは一言で言えます。つまり『答えを出すのには百年かかる』」 また、「啓示」というと言うこの書が一番難解な書であるという事実は、何となく合点がいかない。こういう気持ちが私たちの心の中にある。けれども、この書は暗く閉ざされたもの、即ち、ギリシャ語のタイトルが示すような「黙示」「包み隠す」とはおよそ違ったものである。 この書が一番やさしい書の一つだと言ったら、正気の沙汰でないと思うだろう。けれども、事実は そうなのである。だからと言って、この書の象徴的表現(意図的に難解にしているものも多い)の 全部を解く事ができると言っているのではない。そんな事のできる人はいない。けれども、全体の 意義と使信は、誰にも分かるものである。・・・・

シドロー・バクスターのえらく面倒な文を紹介したが、この書を読んで私の理解できる箇所はたった一つ、「マラナタ」「主よ来たりませ」だけである。それで十分と思っている。