イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月24日(土):女の失くした銀貨

『女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を履いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょにに喜んでください」と言うでしょう。』ルカの福音書:15章8節~9節。

この譬えで問題にされている貨幣はドラクマという銀貨で、およそ390円に相当する。パレスチナの農家で貨幣を失くするという事はよくあることで、それを見つけ出すのには随分長い間捜さねばならなかった。パレスチナの家屋は大変暗かった。その壁には、直径45センチほどの小さな窓が一つあるだけであった。床と言えば乾いた、い草を敷いた土間だった。そういう床の上に落ちた貨幣を捜すのは枯草の中に落ちた針を捜すようなものだった。女は床を掃いたが、それは銀貨が光るのが見えるか、チャリンという音が聞こえるかするだろうと、期待したからである。女はどうしてそんなに熱心に銀貨を見つけようとしたのだろう。それには二つの理由がある。

(1)・・おそらく、それはなんとしても必要だったのであろう。390円はたいした額ではないが、それでもパレスチナの労働者が一日働いて得る労賃より少し多かった。そうした人たちはきゅうきゅうとした生活をしていて、たくわえはほとんどなく、いつも飢餓常態にあった。女は一生懸命に捜した。見つけなければ、家族一同食べて行けなくなるからである。

(2)・・ところでこれにはもっとロマンチックな理由も考えられる。パレスチナでは、既婚女性のしるしは銀の鎖に10個の銀貨をつけた髪飾りであった。おそらくこの少女は、長い間貯金をしてやっと10枚の銀貨をそろえたのであろう。というのも、髪飾りは結婚指輪と同じ意味を持っていたからである。彼女がひとたびそれを手にすれば、それは絶対奪ってはならないもので、借金の返済にすら、それを彼女から取りあげることはできなかった。この譬えの中で女が失くしたのはおそらくこういう銀貨の一枚だったのではないだろうか。どんな女性でも結婚指輪を失くせば必死になって捜すものだがこの女も必死だった。・・・・・・

この女がついに銀貨のにぶいきらめきをみつけたとき、ついに再び女の手に戻ったとき、この女の喜びがどんなだったか、想像するにかたくない。神もそれと同じだ、とイエスは言った。罪人が一人でも悔い改めて家に帰るなら、神と天使すべてに大きな喜びがある。それは丁度、一家の飢餓を救う一枚の銀貨がなくなり、それを見つけたとき家族みんなが大喜びするのに似ている。それはまた、お金に代えがたいいちばん大切にしていたものを失くして、再びそれを見つけた時の女の喜びに似ている。・・・・・

パリサイ人は今まで、神をそのように考えたことがなかった。ある、偉大なユダヤ人の学者は、イエスが神をこんな風に教えたのは全く新しいことだと認めている。つまり、神は人間を捜し求めているというのだ。人間が自己に破れて、神のもとにやっとこのでたどりつき、そのみ前にひざまづいて憐れみを乞うなら、その憐れみを見いだすであろう。そのことは、ユダヤ人の誰しもが認めるところである。しかし、自分から罪人を捜し求めて彷徨するという神の像は、ユダヤ人の思いも及ばぬことであった。探し求める神の愛を信じることができることは、われわれの栄光である。その愛は神の子イエス・キリストの中に受肉した。イエスは、失われた者を捜し救うために来られたからである。・・・・・・・・

(W・バクレー)