イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月2日(日):イエスを愛することについて

 

1・・イエスを愛するとはどんなことか、イエスのために自身を軽んじるとはどんなことか、これを悟った人は(詩篇119:1~2)幸いである。あなたの愛するものを、愛するイエスのためにすてるべきである(申命6:5)。なぜならば、イエスはすべてに勝って一人ひとり愛されるのを望まれるからである。被造物の愛は、あてにならず不確かだが、イエスの愛は、真実で不変である。被造物に執着する人は、倒れやすい被造物と共に崩れようが、イエスに縋(すがる)る人は永遠に確固として立とう。イエスを愛し、あなたの友として保ちなさい。イエスは、みながあなたを捨てても、あなたを見捨てず、終わりにもあなたが滅びるがままに任せはしまいから、欲しようと欲すまいと、あなたはいつかすべてのものに別れなければならないのである。

2・・・生きるにも死ぬにも、イエスのそばにしっかりと付き添い、その忠実さに身を任せなさい。すべての人があなたを見捨てても、イエスは一人であなたを助けられるのである。あなたの愛する者は、他人と愛を分け合うことを望まぬような性質をもち、あなたの心を独り占めにし、王者のように自分だけの玉座に着くのを望まれるのだ。もしもあなたがすべての被造物を心のなかから斥ける道をよく知るならば、イエスはきっと喜んであなたと共にすまわれよう。あなたがイエス以外の、人らに託したものは、みなすべて、ほとんど滅んでしまったのを、やがて覚ろう。風にそよぐ葦を信じ、もたれかかってたりしてはならない。なぜならば、すべて肉なる者は野草であり、その栄光はみな野草の花のように散るだろうから(イザヤ40:6)

3・・・もし外見だけに眼をつけるならば、すぐにあなたは騙されよう。それゆえ、他人から自分の慰めや利益を求める場合には、さらにしばしば損を受けることになろう。(これに反して)もしもすべてにつけてイエスを求めるときは、必ずイエスを見いだすであろう。だが(そこに)自分自身を求めるならば、自分自身を見いだせようが、そのためあなたは滅びに至ろう。なぜならば、もしもイエスを求めるのでない場合には、人間は自分にとって、全世界やあらゆる敵対勢力よりも、もっと有害だからである。

(イミタチオ・クリステイ:第7章)