イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月8日(土):鬼籍の人たち (3)

重雄:つるんとした顔の男だった。戦後の食糧難の時代にやけに顔色がよかった。顔のつくりもよく、多分、クラスで一番の美男子であった。それもそのはずで、数十軒ある村の神官の息子だった。当時も今も神官のうちは代々続いている家柄が多い。わが家も母方の家は、神職をつとめていた。峰浜村石川という集落の神官である、村の古老に聞かされたことであるが、およそ300年程前に、一人の虚無僧が村にやって来て、住みつき、神社を建立し今に至っているのだという。多分、重雄という神官の家もそうした経緯をたどったのであろう。よくよく、田舎の集落を見ると、その中心辺りに、神社や仏教寺院がある。「門前町」という言葉があるように、集落は、そこを中心に、家並みが続いている。

 重雄はそこの次男坊であった。家督を継ぐ必要がなかったので、高校は進学校へ進んだ。成績優秀な者しか入れない、県内でも名の知れた高校であった。よく通学列車で一緒になったが、いつも列車のデッキにいて本を読んでいた。どんな本を読んでいるか、気になったので、覗いてみたら、「推理小説」を読んでいた。アルセーヌ・ルパンやポワロ(?)のようなものだった。どちらかというと理数系の頭脳を持っているようであった。どちらかというと私は、理数系は苦手で、高校も悪たれ工業高校へ通っていた。同級生同士のつながりとしては、案外希薄な方だったろう。それでも、この男は将来有望だとはどこかで思っていた。当然のように大学へ進み、その後のことはよくわからない、後で聞いた話によると、山陰地方の機械メーカーに就職したようで、以来、あまり会うこともなかった。何年かに一度持たれた同級会にもほとんど顔を出すことはなかった、ところが40代の頃一度、どうしたことか、ひょっこりと、同級会に顔を出したことがある。相変わらずつるんをした顔のつや肌で、見るからに良家のお坊ちゃまであった。同級会で話こんでいたのは、招かれてきた恩師の先生とだけほとんど話し込んでいた。あまり、同級生とも私とも声を交わすこともなかった。エリート社員とはこういうものかと思わせられた再会であった。

 それから何年経ったろうか、神官を継いでいた彼の兄から依頼があって、窓ガラスの修理に出かけて行った。仕事の合間に当然、弟、重雄の消息を尋ねた。聞くと、彼の人生のも波瀾があったらしく、勤めていた会社が倒産して、社長が従業員をそのままにして雲隠れしてしまったのだという。その折、彼は労働組合を立ち上げ、その会社を労働組合の管理かおいて、会社の再建に取り組んだという。そして、組合員の協力で再建を果たしたというのである。

 昔、NHKで、番組名は忘れたが、現代社会で苦境に会い、その苦難を乗り越えてリベンジを果たした人たちを紹介する、ドキュメンタリー番組が放映されていた。私も面白い番組なのでよく観たが、そのテレビのスタッフが、山陰地方で会社再建を果たした、重雄を中心とした、労働組合の働きを取材にきたという。どこまで取材が進んでいたか定かでないが、重雄も偉いことをやってのけたなと、そんなことを兄から聞かされ、感心しながら帰ってきた。

 それから、どれくらい経ったでろうか、再び重雄の兄から仕事の依頼があった。出かけて行って、その後、重雄がどうしているか尋ねてみた。返ってきた言葉は驚くべきことであった。「死んだ」と。突然死のようであった。会社再建に全力を使い果たしてしまったのか、忽然と一人の男がこの世から姿を消した。テレビ取材も沙汰止みになり、彼の小さなリベンジ物語も放映されることはなくなった。

 ふと、スケールの差は雲泥ほどもあるが、日ロ戦争の児玉源太郎元帥のことが想いだされた。旅順攻略のため、203高地を攻めあぐんでいた、乃木大将を叱咤激励し、内地から大型大砲を持ち込み、旅順艦隊を壊滅させた孤軍奮闘の働きの末、終戦後、50余歳の若さでくず折れるように逝った、かの将軍とは、くらぶべくもベくもないのだろうか、ことの大小は違っていても、一国の運命と一会社の浮沈と違っていても、当事者にとってその人生の価値は同等であろうと思われる。