イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月12日(水):連れ小便  (天声人語)

神戸の生田警察が「立ち小便」の追放に張り切っている。不届きな所業におよんだものは直ちに検挙し、3000円の科料をびしびし徴収しているそうだ。証拠のためにビデオコーダーを使い、一日2,3人の割というから、これは手きびしい。「立ち小便は」はよほど品が悪いとみえ、辞書でもなかなか見つからない。「広辞苑」「大言海」など八つの辞書を引いてみると、二つしか出てこなかった。誰でも知っている言葉で、辞書にはない例の一つである。

 日本人の悪習で、外国にはないとよく言われる。フランスのグルノーブルでおこなわれた冬季オリンピックの記録映画で、日本人がこの日本的動作をする一コマがある。日本人も外人も、それを見てどっと笑うが、日本人の笑いには、いささか複雑な心理がこもっている。だが外人はやらないというのは少々誇張であって、ニューヨークの電話ボックスには、それと分かる異臭をただよわせているものが多い。ニューヨークの日本人でないとすれば、犯人は外国人か犬というわけになる。外国のゴルフ場で、黙って草むらに立っているゴルファーを見かけることもある。南米では、教会の柱が臭いことがよくあるという人もいる。物陰が多いせいだろうか。

 日本では鳥居の絵を書いて防戦に努めるが、いまや鳥居にそれだけの権威があるかどうか疑わしい。南米のカトリックの権威は鳥居と比べてどうなのだろう。

 神戸の追放運動は、国際都市として恥ずかしいという理由だが、外人に恥ずかしいだけでなく、住んでいる人にとっても迷惑千万な話だ。捕まって、3000円払わされた人が「警察権の乱用だ」と開き直るのはいただけない。ほろ酔い気分で、ついつい「立ち小便」、仲直りしたあと、黙々と肩を並べる「連れ小便」貧寒として、温もりのあるニッポンの風景であるが、威張ったり、弁護してもらう代物ではない。

(昭和50年5月17日:深代惇郎。)

 

今日は何気なく深代惇郎氏の本を手にして、読んでみた。この人の書く文章は、その知識、知性もさることながら、文章全体が、どこか暖かいのである。何篇かはこのブログで紹介してきたが、わずか、800字という限られた、コラムの中に、多くのものが隠されているように思われる。多分、意識するしないにかかわらず、自分にとってもお手本になってきたように思う。