節子:50人のクラスの中に、節子が三人いた。二人は全く同姓同名、一人は小塚という苗字だった、この人については、(恋文)において書いている。
中学時代までは、大抵相手を呼ぶときは苗字ではなく名前で呼び合っていた。そんなことで同姓同名の二人の呼名は、小森部落の出身なので小節(こせつ)。もう一人は脇神という部落の出身なので、脇節(わきせつ)と呼び合っていた。もう一人の節子はそのまま節子と呼んでいた。今、生存しているのは、小節一人で町役場に務めていた、いわゆる情報屋さんである。他の2人は早くに亡くなった。
脇節の方は随分早くに亡くなった。36歳だったと記憶している。私の家は青森県大鰐町から引っ越して来て、二年生のはじめから、その脇神という部落に引っ越ししてきた。その引っ越し先の家と脇節と呼ばれる節子の家は、二三軒隔てたはす向かいにあった。当時としては珍しく、総二階の大きな家だった。村では篤農家に入るらしく裏には田畑が広がっていた。小柄でおかっぱ頭のどこか品のいい顔立ちをしていた。恋心というほどでもないが、節子にはほのかな愛着に似たものを感じていた。総二階の座敷には、当時としては珍しく、蓄音機あった。ラジオでさえ放送が始まるか、はじまっていなかったかという時代であったから、蓄音機を持っているうちなど他にほとんどなかった。ただし、これが曲者で、ちょく、ちょく故障した。そんな時にはうちに頼みに来る。丁度私の兄が、弘前工業の電気科を卒業し、電器メーカーに就職したが、事情があって帰っていた頃でもあった。頼まれると兄がその節子の家の二階まで出向いて、修理したものだった。そんな時は私も同行して、二階座敷に上がって、修理を見守っていた。そんなこともあって、結構なかよしになれた。昔は今ほど子供のおやつなんて考えられなかったので、野原の草を、大人たちから、食べられるものを聞いて、それを塩もみにして食べたものだった。よく、節子と草を探して食べた、今では考えられないことだが、それも、子供の、一種の遊びのようなものだった。
私の父はそこで麹屋を数年やった。昔は、農家では清酒など買えないので、自家製のドブロクと言われる密造酒をつくって飲んでいた。もちろん、漬物にもコメ麹は欠かせないが、需要の大半は密造酒用であった。元々の麹屋を営んでいた人が、自分で働くのが嫌で我が家で設備一切を借りて営業していたのである。兄と、父が各部落を回って麹をを売りさばいていた。たいして儲かる商売ではなかったが、皆が貧しい時代であった。おかげで飢え死にだけはしなくてよかった。この商売も私の小学時代までで、中学に入ると父は農業協同組合に就職して、隣部落に移ることになった。節子とは学校では中学時代ずっと一緒のクラスではあったが、家が離れるともう一緒に遊ぶこともなくなった。今、思い出してもよくもまぁ、あんな草を一緒に食べたものだと、妙に懐かしく思い出される。彼女は高校へ進学して、多分大学まで進んだと思うが、その後のことはほとんど記憶にない、あんなになかよしだったのに、途中から、彼女との間がぷつんと切れたままに過ぎてしまった。不思議に卒業後の同級会での記憶もないのが不思議なくらいだ。彼女が亡くなったのも、情報屋さんの小節から聞いたのではなかった。誰から聞いたのだろう、思い出せない。随分後になって風の便りとしか言いようのない伝わり方をした。36歳だったという。結婚していたのか、お子さんがいたのか、何も情報が入って来なかった。
36歳と言えば、私は隣の大館市という所の、商事会社に勤めていた頃だ、丁度、東北自動車道の建設が岩手秋田の県境の工事をしていた頃だ、朝は、7時に出かけ、夜中まで働いていた時代だった。大手ゼネコンが軒を連ねて工事事務所を構えていた。鹿島建設、熊谷組、大林組、鉄建建設、奥村組、錢高組等々、日本中のゼネコンが来ていた。商社マンといっても、地方の名もなき小さな、合名会社は相手にしてくれなかった。しかし、大館市から現場まで片道2時間半、毎日挨拶まわりに出かけた。
そのうち鹿島の資材担当が言った「三浦、毎日来い、必ず注文を出す」と言ってくれた。「お前のところで納品出来るものはお前にやる」と言ってくれた。その他のゼネコンも同様に、資材を注文するようになった。モーレツ社員という言葉が流行っていた時代である。そんな忙しい中で、多分、節子の死を知らずに働き続けていたのであろう。