太平洋上、インドネシアの西方に、小さな島国がある。日本から千キロばかり離れた南洋の島国である。200ばかりの群島だが、住民が住んでいるのは十島くらい、あとはほぼ無人島である。この島は、スペインの大航海時代までは、貧しいながらも平和な所であったらしい。1600年代、スペインがこの島を発見し、植民地にした。当初、島の人口は6万人くらいであったという。スペイン人が移住してきて、現地人を奴隷化して使役した。その時代、どこの植民地も同様にそうであった。彼らがどれほど過酷な使役を原住民にしたかは、人口の激減をみればわかる。ほどなくして、ほどなくして、原住民は9割減った。それは、スペインの過酷な奴隷化と、疫病、天然痘の流行をが原因であった。300年近い過酷な治世であった。やがて、スペインはこの地から撤退することをきめ、この植民地を、ドイツに売り渡した。ドイツの統治は長くは続かなかった。第一次敗戦によりドイツが撤退した後、国際連盟により、このパラオ列島は、日本が委任統治することになったのである。ここから、日本と、パラオとの関りが始まるのだが、日本がこの島に来た時、こう宣言した。「ここは日本だ、従って、日本人もパラオ人も差別はない。」。島の人々は半信半疑であったろう。これまで、スペインもドイツもそんなことは言わなかった。ひたすら、現地人を奴隷化し、過酷な環境で働かせ続けてきたのである。逆らう者は弾圧し、抵抗する者は容赦なく処刑してきた。・・・・・・
日本の統治が始まった。最初の言葉通り、日本人は、島民を差別しなかった。「南洋の島」こんな歌がある。「うちのラバーさん酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人」♬、♬。何やらホンワリとする、歌が戦後?、流行ったのを覚えている。ま、日本と、南洋の島はそんな感じだったのだろう。日本はこの島のインフラ整備に乗り出した。道路を造り、橋を架け、役所を設置し、学校を造り、病院を建てた。ほどなくして、子供たちに小学校へ通う様に指導した。日本語の教科書と教材、お昼には給食を出したので子供たちは、喜んで通学することになった。因みに、スペインもドイツもそんなことはしなかった。現地人にはなまじ勉強を教えると反抗的になると、ひたすら「愚民化政策」を取っていたのである。日本領となった島に、内地の人々も移住し始めた、最終的に、3万人前後の日本人が移住するようになっていた。そこには、日本人も現地人もなく、差別することもなく暮らした。日本の会社も現地に工場を建て、缶詰工場や、縫製工場など作り、現地人を雇う様になった、スペインもドイツも鉱山で働かせたが賃金を払うことはなかったという。日本の工場は賃金を払い、そのお金で、日本のお店から必要なものを買えるようになった。・・・・・・
日本のパラオ統治は30年間。多分、パラオの人々にとって、最も安定した幸せな時代であったかも知れない。しかし、その平和が破れる時がきた。日本はアメリカと戦争をはじめていた。次第に、敗戦の色濃くなってきた昭和19年、ついに、アメリカがこの島に乗り込んでくることになった。この島には日本軍の飛行場があった。アメリカはこれを破壊しなければならなかった。島に駐留する日本軍約、一万人、対してアメリカ軍は4万以上の大兵力で島を制圧するためにやってきた。・・・・・・
島の防衛を任されたのが、中川州男と言う大佐であった。アメリカ軍が攻めてくると聞いた、パラオの住民は、島民の意見と集約し、全会一致で、日本軍に参加することをきめた。代表者が何人かで、中川大佐のもとを訪れ、言った。『我々は、武器を取って日本軍と共に、アメリカと戦います。』。その言葉を聞いた中川大佐の返答は、彼らの予想だにしなかったものであった。『日本帝国の軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか、帰れ、帰れ』というものであった。代表者たちは耳を疑った。これまで、日本人とは、仲間、同胞だと思ってきたのに、「貴様ら、土人」と言われ、唖然としたのである。日本人もやはり、スペインやドイツのように、自分たちを心の底では見下していたのか、と思わざるを得なかった。彼らは深い失望を覚え、帰って行った。・・・・・・・
ほどなくして、島民の避難が始まった。アメリカが狙うのは彼らが住んでいた、ペリリュウー島であった。先に触れたように、この島には日本の飛行場があった。ここを陥落させなければアメリカ軍も先には進めなかった。日本本国防衛の要の島だったのである。他の島へ移ればパラオの人々は安全だった。彼らを乗せた船が港を出ても、日本軍は見送りに出てこなかった。しかし、船が沖合に出始めた頃合いに、浜辺に日本兵が出てきた。彼らは、帽子を取り、手を振って、涙ながらに日本の歌を歌いながら見送った、それは島にいた時、共に歌ったものだった。・・・・・・・・
船にいる人たちは、その時初めて気がついたという。あの中川大佐の、『貴様ら土人たち‥‥』との、侮蔑的な突き放した言葉は、自分たち島民を、避難させるための方便だったのだということを。見れば、浜辺に、あの中川大佐の姿もあり、手を振っていたという。・・・・・・・
この島、ペリリュウ島の攻防は過酷なものだった。攻めるアメリカ軍は五万人の将兵。徹底的な空爆が行われ、島の形が変わり、草木はすべて焼き尽くされた。アメリカ軍はこの作戦は4日ほどで終わるだろう。と考えていた。しかし、島には、リン鉱石を採掘するため、以前スペイン時代掘られた洞窟が無数にあった。中川大佐はこの事態を想定して、洞窟内に縦横無尽に防御陣地を構築していた。結局、この戦いは、4日では終わらなかった。日本軍が玉砕するまで実に、73日かかった。アメリカ軍の損害も甚大なものであった。太平洋戦争中、最も多くの兵士を失ったのはこの戦いであった。こうしてペリュリュウー島の戦いは終わった。島に帰った島民たちは、一万余の日本兵の遺骨を収集し、手厚く葬った。慰霊碑を建立し、それは靖国の方を向いているという、戦後、先の天皇が慰霊に訪れ、献花をされた記録がある。また、先の昭和天皇も、この戦いを案じられ、10度も、励ましの電文を寄せられたとある。・・・・・・・・
付け加えるならば、この戦いにおいて、パラオの住民に一人の戦死者もなかった。こうした事柄から、パラオは最も親日的な、国であると言われる所以である。余談ながら、戦後、1994年、彼らは独立を果たしたが、その後、パラオの人が日本の外務省にやって来てこのように言ったという『日本が来て、もう一度、パラオを治めてくれませんか?」と、それに対し、日本の役人は「今は、そういうことはしておりません」と答えたという。一種の笑い話のような出来事ではあるが、これが、全てを物語る事なのかな、と、笑いつつ、考えてしまう。