ポーランドと言えば、西欧の国であるが、あまり日本に馴染みのある国とは言えないだろう。わたし自身もポーランドについて知っているのは、ショパンくらいのものである。しかし、この国は意外と親日の国であることが判ってきた。かの国が何故親日国になったかのいきさつは、ほぼ百年前の1920年代に遡る。それは、ロシア革命時代のシベリヤ時代にあった。いわゆる、日本で言う「シベリヤ出兵」。当時シベリヤは揺れ動いていた。欧米各国がシベリヤに軍隊を派遣していた。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、そして日本も。その酷寒の地シベリヤに、ロシアに抵抗したポーランド人が二十万とも、三十万とも言われる人々が流刑になっていた。彼らの殆どがその地で処刑されるか寒さや飢えで死んでいった。そうした状況の中で、数百人の幼い子供たちが、一か所に集められ「保護」されていた。とは言っても、子供たちは、飢えと寒さに、その命はまさに風前の灯のようなものであった。ポーランド人のアンナ・ヒルケビッチ女史が「ポーランド孤児救済委員会」を立ち上げこの取り残された孤児たちの救援活動をしていた。彼女は各国の軍隊に孤児たちを助けてくれるよう要請して回ったが、どこの国も、いろいろ理由をつけて動こうとはしなかった。残るのは日本だけであった。彼女は、その昔、ポーランド宣教師が日本で迫害にあったことを知っており、乗り気はなかったが、日本以外今は、頼める国はなかった。彼女は日本へ行き、政府に頼み込んだ。あまり、期待はしていなかったが、ほどなくして、日本赤十字の加藤氏から呼び出され事情を聞かれた。「骨折ってみましょう」との返事をもらった。日本の対応は早かった。二週間後には、シベリヤの孤児収容所に、日本軍のトラックが着いた。子供たちはそれから順次、保護され、日本の福井県敦賀港へ移送された。子供たちは、東京都と大阪に分散して移住した。その頃はこのニュースが新聞等で取り上げられ、多くの日本人が孤児たちのために、寄付をした。特に、敦賀でのしばらくの滞在の際は、医療関係者も、このやせ細った孤児たちの体力回復のために尽力した、この子たちの新しい服が用意され、お腹一杯ご飯が食べられた、この際特筆すべきは、この子たちには、日本食ではなく、ポーランドの家庭料理を出されていたことである。そのレシピが現在に残されている。その頃、折り悪しく腸チフスが流行し、子供たちも何人か感染した、当時5歳だったアントニナと言う子も感染した。その子の看病したのが、まだ20歳だった松沢フミと言う看護婦であった。アントニナによればフミさんは特に自分を可愛がってくれ、腸チフスにかかった時、献身的看護をしてくれたと言う。アントニナが、お礼を言うと、「困った時はお互いさま」と。言っていたという。敦賀を離れ東京へ移る時になって、アントニナは、フミさんの姿が見えないのに気がついた。これまでもしばらくフミさんに会っていなかったので、他の看護婦さんに聞いてみた「フミさんの姿見えないけどどうしたんだろう・・・・」。別の看護婦が、言いにくそうに答えたという、「フミサさんねぇ、腸チフスで亡くなったの」。アントニナは驚いた、自分が腸チフスで死線をさまよっていた時、フミさんが必死で看病してくれた。彼女は幼いながらも衝撃を受けたという。・・・・・・
子どもたちは、ほぼ一年程日本で暮らしたが、暖かく、親切な日本の対応に、慣れたなれた子供たちの多くは、ポーランドと日本の政府により帰国することになったが、母国は帰りたくない、子も多くいたという。100年前の出来事である。こうして、シベリヤ置き去りにされた、765人の、子供たちが母国へ帰って行った。彼らの多くはこのこと忘れていなかった。その後、日本で未曽有の災害があった時、彼らはお金を出し合い。阪神淡路大震災に見舞われた日本の子供たちを、東日本大震災に見舞われた子供たちを。ポーランドに招待して元気づけた。日本の子供が、「おばさんたちは、どうして私たちにこんなに親切にしてくれるの」と聞くと、もうその頃はあのシベリヤ孤児たちも80歳を越えていた。アントニナは応えた。「困った時はお互い様」。あの敦賀での、松沢フミさん達の言葉そっくり返したという。アントニナをはじめとするあの孤児たちは機会あるごとに、日本と、日本人が自分たちに、してくれたことを、国内で語り継いできた。ポーランドの国民は、そのことをいつも覚えているのである。ポーランドの学校の教科書にも、このことはしっかり載せれているとも言う・・・・・
ポーランドに、ワルシャワ大学というのがある。日本で言えば、東京大学のような一流大学であるが、そこには「日本学科」というのがあるそうである。それは、日本語学校と言う類のものではない。れっきとした「学科」なのである、入学の競争倍率が20倍。このことから見ても、如何に、日本と重要な国と見ているか、理解することが出来そうだ。