イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月21日(日):親日国 (3) ブータン王国

先ごろブータンと言う国が、マスコミでも取り上げられ「世界一幸せな国民が住む」と言われ一躍有名になったが、元々はヒマラヤ山脈の高地にある、小さな王国である。国土の70%が自然に囲まれ、土地の広さと言えば、日本の九州地方ほどしかない。ロシアとインドに挟まれた「貧しい国」であることに変わりはない。食料の自給率も60%で、不足分はインドから輸入していた。そのような国情に時の王が、1950年、改革を試みようと動き始めた。日本へ開発援助を申しいれたのである。それを受けて、日本は、当時大阪府立園芸高校の教諭をしていた、「西岡京治」に白羽の矢を立てた。彼はヒマラヤ登山に参加した折、現地の住民の貧しさを知っており、内心いつの日か、彼らの役に立てればと、心の片隅に、そんな思いをいだいていたという。ブータン国王の要請から4年後の1964年、西岡京治ブータン派遣が決まった。彼がネパールに着くと、そこにはインド人や他の人達がいた。インドの人が西岡に言ったという「我々も、ブータンをこれまで支援してきたが、ブータン人は、昔ながらの流儀を固執して、なかなか、改革派むつかしい、日本から君が来ても同じことだろう」と言われたという。まだ、30歳であった西岡は、感情を害したが、それはそれとして受け止めた。実際、ブータン国内に入ってみると、国の、国王も、首相も似たようなものであった。「若造が」と言う気持ちとたった一人(奥様を帯同していたらしいが、この記事では奥様のことは割愛する)

いずれにせよ、国王の要請で日本国から派遣された西岡に、当初貸し与えられた土地は、猫の額ほど、とも言える狭い小さな土地であった。どうして、このような土地に農業試験場が作れるのか、西岡の失望は大きかったに違いない、しかし、彼はそれにもめげず、その土地に、日本から大根の種を取り寄せ、栽培を始めた。あぁ~、彼に、助手として3名の少年たちが与えられていた、何と、13歳から、14歳までの子供である。

3か月ほどすると、西岡の植えた大根が大きくなった。子供たちは驚いた。「何て、日本の種は素晴らしいんだ」。大根を収穫して、町の市場に持っていくと、トラックいっぱいの大根が、ものの3時間ほどで完売するほどであった。現金収入があると、人々は現金なもので、周りの人々が、われも、我もと、西岡から種を分けてもらい、栽培を始めるようになって行った。それに、トマト、キャベツ、その他いろいろな野菜を植えていった。・・・・・・

1964年、西岡のブータンでの二年の任期が切れようとしていた頃、政府の役人が来て、任期の延長を日本政府にお願いしたいが、どうだろうかと言う打診があった。西岡はそれを快諾し、さらに二年ブータンの農業を指導することなった。最初の小さな土地もその頃は拡張され、「パロ農場」と呼ばれ、「賑わい」を見せていた。最初は、胡散臭いような目つきで見ていた地域住民も、応援し、かつ、自分たちもパロ農園から多くのことを学び、自分たちの、耕作地に生かしていた。そのため、収入も増え、最初の頃とは見違えるほど、協力的になっていたのである。・・・・・・・

4年程過ぎた頃、西岡を招聘した国王が亡くなった。息子が跡を継いだのだが、この国王も先代と同様、西岡に強い信頼を置いていたのは幸いであった。王は、さらに、西岡に、国で最も困難な地域、へき地の開拓を依頼したのである、彼らはさらに奥地のジャングルに住み、貧しい国の中でもさらに貧しかった。焼き畑農業をして、前時代の農業で暮らしていて、閉鎖的であった。西岡はその地に出かけて行った。当然彼らは、疑いの目でこの日本人を見た、最初はどうであれ、俺たちを働かせて、やがて、収穫するものは皆、国に取られてしまわないか、疑念をいだいていたのである。西岡のすごさは、これからである。彼は、その僻地に住民たちと、話し合いを続けた。そのその回数は800回にも及んだという、偉ぶることなく、徹底的物事を話し合いで解決しようとしたのである。その姿勢に現地人も少しづつ心を開いていった。そして、何よりも、パロ農場の実績があった。少しづつ心を開いていった農民の何人かを、「パロ農場」を見学させ、希望者を、そこへやって、パロ農場で学ばせたのである。最初、西岡の所に送られて来たあの三人の少年たちも、今はもう20歳を越えていた。西岡の良き手足となり、働いていたのである。彼らはもうすっかり、野菜の先生気取りであ。・・・・・・・

西岡は、あのジャングルに住み、焼き畑農業をしていた住民を定住させ、農業を営むことにこぎつけるのに5年の歳月をかけた。彼も最も困難な時代であったかも知れない。この間、彼は水路を造り(竹で)。ワイヤーロープでつり橋を造り、道路を整備し、耕作地を開墾した。それで、彼らは、焼き畑農業をやめ、定住をはじめ、米を作付け、当初の週十倍もの収穫を得るようになった、もはや、餓えることがなくなったのである。・・

思えば、ブータンへ来て、27年の歳月が流れていた。西岡も57歳、そろそろ帰国しようかなと思っていた矢先、突然の病に倒れ、帰らぬ人となった。国王はじめこの訃報には驚きを隠しきれなかった。国王は、彼に、ブータン最高の勲章をを与え、彼の葬儀は、国葬として執り行った。5千人もの人々が、列をなして、その死を悼んだ。・・・・・

時は、2011年。若きブータン国王が来日した。彼は、その父と祖父の時代に、奉仕した西岡の働きを知っていたのだろう。日本の国会の参議院会議場で、演説を行った。その演説は限りなく、日本への感謝の言葉がちりばめられていた。さすがに、西岡の名前は出なかったが、この若き国王の脳裏には、西岡京治の名前が浮かんでいたことであろう。・・・・・・・

2011年11月、この若き国王は、僧侶を帯同していた。彼らは王と共に宮城県の浜辺に座し。あの東日本大震災で亡くなった人々のために、読経し祈りをささげた。日本はこの震災に際し多くの国から、多大の援助を与えられた。しかし、現地へ行って、祈りと慰霊行ったのは、ただ一国、ブータンだけであったと言う。近年、国際社会において、日本に対するブータン王国の、支持は郡を抜いていいる。国際会議の場における、ブータンの支持率はほぼ100%である。いかなる、日本の提案、決議に必ず賛成票を投じるのである。・・・・・・

国民の大半が、「幸福感」感じている、ブータン王国、その一助を担ったのが、日本であれば。幸いなことである。