イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月13日(火):ココロイタイ

近代ギリシャ史を研究していた東洋大学教授、村田奈々子氏がそのギリシャ国内において、一つの日本語とおぼしき言葉を発見した。それが「心痛い」という言葉であった。意味合いとしてもその語彙通りであり、不思議な想いをしながら、その言葉を知っている人たちから話を聞いてみると、そこには、100年間語り継がれてきた、ある出来事があった。その出来事とは、1920年ごろに起こった稀土戦争(ギリシャ、トルコの戦争)に起こった、ジェノサイドに関するものであった。そこには日本の商船と日本人が絡んでいた。日本の船長が、ギリシャ人、アルメニア人の民間人800名を戦火の中から救い出したという、出来事であった。ギリシャでは、語り継がれてきた事件ではあったが、日本ではもとより、世界的にほとんど知られていない出来事であったため、それはごく一部の人だけに伝えられているに過ぎなかったし、中には疑問視する者も多かった、村田教授は、この件を調査してまもなく、余りの資料の少なさに、この件の調査をあきらめねばならなかった。この調査を初めて20年も経った頃、2011年ごろ、新たな証拠が発見された、そこで再び彼女は、この調査を開始した。それらの概要は以下の通りである。稀土戦争において、最初は優勢であった、ギリシャアルメニア軍はやがて追い詰めれれるようになった。そしてエーゲ海の港イズミルへと追い込まれるようになった。しかし、そのほとんどが民間人であった。トルコ軍は内陸から攻め込んできた。彼らは殺戮を繰り返しながら港を包囲した。多くの民間人、ギリシャ人、アルメニア人は、もう逃げ場がなかった。彼らの多くは海に飛び込んで助けを求めた。この港には、いくつかの国の、軍艦、商船が停泊していた。漂流民たちはそれらに助けを求めたが、どの艦船も彼らを助けようとはしなかった。イギリス船は、その叫び声を聞きたくないかのように、船上で音楽会を開いていたという、フランス人は、救助者に金銭を求めたという、他にイタリア、中国の船もいたようである。日本に関しては、貿易船「東慶丸」が停泊していた。船長は「日北佐三」。彼はこの状況を見て、船員に、「溺れている者を救助せよ」と命じた。トルコ軍からどんな、攻撃を受けるか、船員たちは案じながら、それでも船長の命令で救助に当たった。商船には積み荷があった。それは高価な絹、陶器品、レース、等、それらを海に捨てて、難民の乗船する場所を確保せよと、命じられ、彼らはそれらを海に捨て、人々を海から拾い上げて、船に乗せた。トルコ軍がこれを座視するはずもない、彼らは東慶丸を取り囲み、アルメニア人、ギリシャ人を引き渡せと要求してきた。船長は言い放った。「これらの人々は、日本国旗の保護のもとにある、一人たりとも君らに引き渡すことはない、もし、攻撃してくるならば、直ちに日本本国に打電する」。それを聞いて、トルコ軍は、引き下がった。これは私見だが、丁度同じ時代に、日本近海で、トルコの艦船が難破し、日本の漁民がトルコ人船員69名を命がけで救助したことがあった。トルコ人にはその記憶があり、トルコ自体親日国だったことも影響したのであろう、それでなければ、あれほどあっさり引き上げることはなかったように思われる。それから、東慶丸は、出港しギリシャの港に、難民たちを下船させ、日本への帰途ついた。・・・・・様々な証言、当時の新聞記事、保険会社の記録、などから、村田教授は、このような出来事がほぼ事実であるとの確信にたどりついた。「ココロイタイ」。この言葉は船員たちが、あの難民たちの姿を見ながらつぶやいた言葉が彼らに伝わっていたのであろう。難民たちの中に、もう一つの言葉が残っていた。「忘れまいぞ、忘れまいぞ、忘れまいぞ」。あの、人道主義を掲げる、欧米諸国、イギリス、イタリア、フランス、アメリカ、等、彼らは吾々を見殺しにしようとした、救助の手を差し伸べてくれたのは、日本だけだった。忘れまいぞ、忘れまいぞ。