
アジアの西の端、日の没するところエルサレムの寒村ベツレヒムに、イエスがお生まれになってから600年、同じアジアの東、日の出るところ大和の国に一人の皇子がお生まれになった。厩戸豊聴王子(
うまやどとよとみみのおうじ)である。父は用明天皇、母は間人皇后である。太子の「厩戸」と言う名の由来であるが、その昔、西の国に馬小屋にお生まれになった「聖徳」の方がおられると言う伝聞が、中国から渡来した仏僧によって朝廷にもたらされていたことも事実らしい。
(斑鳩の白い道の上に)。と言う本で著者、上原 和氏はこう書いている。「飛鳥の道で、いつも、私が思い描く厩戸のイメージは、白い塵を舞い上げて疾走する馬上の太子であった。私の眼前には、厩戸の凛々しい、精悍な、陽に焼けた相貌があった。)・・・・・・・
聖徳太子が聖徳の人と言われるのは、後年のことである。厩戸はすでに十代の半ばにして権力闘争の渦中にいた。蘇我馬子と共に、物部、守屋勢力と死闘を繰り返し、危ういところで、厩戸のッシャーマン的能力によって勝利し、物部、守屋の勢力を滅ぼした。ところが、用明天皇亡きあと、傀儡天皇であった崇峻天皇があろうことか、クーデターによって暗殺された。この事件に厩戸が関与したと断定できないが、その後の政権は推古天皇(女帝)、厩戸、馬子、のトリオによって成立した。・・・・・・

「柿食えば 鐘が鳴るなる 法隆寺」などと言う呑気な歌を詠んでる場合ではない。厩戸が建立した法隆寺は、物部、守屋、崇峻天皇暗殺と言う血塗られた太子の鎮魂、懺悔寺としての意味合いが強いと言われている。仏法に帰依していた太子と言えども己が手にかけた者たち、守屋、物部の兵たちの怨霊におののいていたのであろうか。・・・太子はまた四天王寺も建立している。もとよりそこには大仏が鎮座している。しかし、その大仏と言えども大和川に屍をを晒した守屋、物部の兵たちの霊を癒すことが出来たのか。そして、太子、厩戸の魂の平安は得られたのか。
・・・・厩戸が制定した憲法十七条・・・・
第一条・・・・和を以て貴しと為す。
上原 和氏はこの一条は、厩戸の血の吹き出すような壮絶な悔恨の思いが込められいるように思われる。と述べている。・・・・
一条の後に、厩戸は書いている。「人は皆、人間である以上誰しも、党(たむら)があり、しかも達(さとり)し得ない者が多いので争いがある」これは厩戸の原罪意識のように思われる。彼は、生母間人太后亡きあと、翌月に病につき、ひと月後に崩じた。妃も業病に伏した夫の看病からか、前日に亡くなっていた。こうして、太子の幸薄き50年の生涯は閉じられた。上宮家にはさらなる不幸が続くが長くなってしまった。続きは明日にしよう・・・・後編は上宮家に悲劇に書いてある。