
【ルカ7:36~50】ある家の中で二人の人がイエス様にお会いしました。一人はパリサイ人シモンです。パリサイ人というのは当時の宗教的グループの一つで、いろいろな戒めや決まりを几帳面に守って、それで自分たちはきよい、正しい人間だと思い込み、人前でもそういうことを誇っていた人たちでした。このパリサイ人シモンがイエス様を食事に招待したのです。どんな気持ちで招いたのか、それは聖書には書いてありませんが、どう見てもイエス様を心から尊敬して是非話を聞きたいと言うのではありませんでした。そのことはイエス様のお言葉の中にもありますように、当然出すべきはずのすすぎの水をださなかったり、尊敬を表す口づけも、歓迎の油注ぎもしなかったと言うことからもよく分かります。・・・・・・
それなら何故イエス様をお呼びになったのでしょうか。私には単なる好奇心のためとしか思えません。シモンはイエス様を、ナザレという田舎町から出てきた、いったい誰から聖書について学んだのかも分からない、どこの馬の骨ともしれない若者と思ったことでしょう。当時のユダヤ人も現在の日本人のように学歴、つまりどの先生の弟子であるとか、あるいはその人の年齢などを非常に問題にしていました。そして40歳以下の若者は若造扱いし、有名な先生に教えられた人でなければ無学者呼ばわりしていましたから、シモンがイエス様のことをそんなふうに考えていたのは当然だったかも知れません。しかも、そのイエスとかいう男が何か近頃大分名前を売っている、一つ、どんな男こか会ってやろう、そんな考えだったのでないでしょうか。・・・・・・・
私たちはイエス様が人々からそういう扱いを受けていたと言うことを忘れてはならないと思います。学歴、家柄、地位、勤めている会社、あるいは性別、さらには顔形、足の長さ、など全くくだらないことで人間の価値が決められてしまうことが多いのです。私たちはそんな人間の本質的価値とは何の関係のない表面的なことで評価される時、イエス様も同じように表面的なことでは全く認められなかったお方であるということを思い出すべきです。聖書の中には「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」と記されているお方だったこと、だからこそ
私たちのそういった悔しさや悲しみを分かつってくださることを考えて見るなら。どんなに慰めと・・・・・・・
一方イエス様をこんなふうに考えたシモンは、どうだったでしょうか、聖書の中にではっきりと分かることはイエス様と出会ったことによってシモンの生涯には何の変化も起らなかったということです。・・・・・・・
協会に行っても、聖書を読んでも、何も変わらない、何も起らないという人も同じような態度を持っているだけかも知れません。つまり、知的な好奇心、ちょっとキリスト教のことを知ってみたい、そんな所にとどまっているからではないでしょうか。大切なことはイエスというお方に力一杯体当たりしてみること、ただ知識を得ようと言うようなことではなく、もっと心の底から真実にイエスというお方を知りたい、そう考えて聖書を読み、メッセージを聞いてくださることをお勧めします。(羽鳥純二師)
