
小泉信三。慶應義塾塾長の名を知らぬ人はいないであろう。また、彼の肩書きを並べればきりがないであろう。この書物は、彼がご子息真吉の戦死の後、家蔵本として300部作り、親戚縁者の配布したものである。信三氏没後、文芸春秋社が復刻版を出した。これがベストセラー的本となって世情に広まった。ご子息真吉も慶應義塾卒業後、三菱銀行へ入社、しかし、元々海軍に憧れていたようで、先の戦争が始まると、海軍士官として入隊した。よほど優秀だったようで、最初から「海軍主計中尉」で任官する。しかし、彼の軍歴は短く、わずか一年余、25歳の若さで、スラバヤ海戦において戦死。その25年の短い生涯を、父は、あらん限りの記憶を辿って、克明に記している。・・・・・・
真吉戦死の公報が届いた日、小泉家は、弔問客でいっぱいになった。そして、皆が引き上げた夜。母親は、暗い部屋の中で、「シンキチ」「シンキチ」と子の名を呼び続けていたという。隣室で、信三氏はじっとその嗚咽の声を聞いていた。 ・・・・・・
後書きにこう書かれている。「真吉は文章が好きであった。若し順当に私が先に死んだなら、彼は必ず私のために何かを書いたであろう。それが反対になった・・・」と。
