
『それがきたら、義について、世の人の目を開くであろう。わたしが父の身元に行くからである』(ヨハネ16:8~10)。
わざもいさおしもなく、ただ信仰によってのみ、人は神に和解せられ、清められるという根本原理は、かたく守って、決してゆるがせにすることは出来ません。パウロもローマ人への手紙で言っております、(3:21~22)『しかし、今や神の義が、律法とは別に、現された』と。こうした言葉を私たちは堅く信じ、より頼み、動かされてなりません。それは罪の赦し義認とが、わざなしに信仰によってのみ与えられることを宣言しているからです。キリストがマタイの福音書にたとえを考えてみて下さい。(7:17)
『すべて良い来はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ』このたとえから、よい木をつくるのは実ではないことが分かります。実がなくても、木は良くなければなりませんし、また、良い実がなる前に、良い木をつくらねばならないのです。このことから、良い行いなしに人がきよめられられなければならないことも真理です。・・・・・・
それ故、人を聖徒とし、良くするには、その人が良いことができる前に、あらゆる善行よりも偉大で貴重な何かを掲げなければならない事が、決定的に分かります。それは、人が健全な働きをする前に、まずからだが健全でなければならないのと同じです。この偉大で貴重なものとは、尊い神の言葉であって、福音のうちに、キリストにあって神の恵みを私たちに述べ伝え、提供します。それを聞いて信じている人は誰でもそれによって聖徒とされ、義人とされます。それ故、このみことばは、生命と、恵みのことば、赦しのことばと呼ばれます。しかし、このことばを聞かず、信じない人は、他の方法では決してきよめられることはありません。(ルター。日々のみことば)

昨日から、拡張工事はじめる。取りあえず、補修、11月に来られる、シンガポールからの客人の寝泊まり、炊事、等生活出来るように整えておく。しかし、予想以上に、既存の建物が傷んでいる、シロアリが、土台をむしばんでいて、柱に指が食い込むほど、腐っている。難儀なこっちゃ・・・・3軒隣の家が騒がしい、奥さんが入院しているとだけ聞いていたが、どうやれ、亡くなった様子である。家の前に、車が三台、花やの車も来ているとのこと、今は、そっと見守っているしかない、公にしたくないのだろう。まだ。札が立っていない。