イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

2月20日(土):さらば昴よ 谷村新司

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目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ

荒野に向かう道より 他に見えるものはなし

ああ 砕ける宿命の星たちよ

せめて密やかに この身を照らせよ

 

我は行く 蒼白き頬のままで

我は行く さらば昴よ

呼吸(いき)をすれば胸の中

凩は吠(な)き続ける

されどわが胸は熱く 夢を追い続けるなり

 

ああ さんざめく 名もなき星たちよ

せめて鮮やかに その身を終われよ

我も行く 心の命ずるままに

我も行くさらば昴よ

 

ああ いつの日か誰かこの道を

ああ いつの日か誰かこの道を

 

我は行く 蒼白き頬のままで

我は行く さらば昴よ

我は行く さらば昴よ

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ひと悶着があった。FBでアーサー・ホーランドが、十字架を負わせいる写真があった。担いでいる人には落ち度はないが。昔、アーサーや、井上薫たちが、街中を十字架を担いで歩く、「パフォーマンス」をやっていた。そのことに、不快感を覚えた。加えて、担っていた十字架が、きわめて非現実的であり、そのパフォーマンスを見る人に、誤ったメッセージを与えるおそれがある。常識的に考えて、ピラトの法廷から十字架そのものを担ってゴルゴタの丘まで、健康な男子でも運ぶのは無理である。当時のローマの処刑方式は、縦の杭をあらかじめ立てておき、横棒は受刑者に負わせるという方法を採用していた。屈強な自分たちでさえ、十字架の下にキャスター(戸車)をつけなければ、かつぎ運ばないものを、どうして鞭打たれ、(瀕死)の状態であるイエスが担ぎえるのか。クレネ人がその横木をになった。でも、聖書には「十字架」と書かれていいるではないかという、疑問を持つ人もいるかと思うが。その語は、ギリシャ語で、原意は「杭」を意味する言葉である。写本が変遷するうちに、いつしか杭が十字架と理解されるようになっていったのだろう。。

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昨日も書いたがここいらあたりで、しばらく、休養する。さらば昴よ。またいつの日か、会える日を楽しみにしている。ご愛読ありがとうござしました。

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紀元一世紀頃のローマの処刑の様子。

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ゴルゴタへ向かうイエス、先頭で杭を担いでいる様子が描かれている.。刑場には、縦の杭が既に建てられている。

 

2月19日(金):主よ、主よ。

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【主よ、主よ。という者がみな天の御国に入るのではない】(マタイ:7章21節)

エスは言われる。虚偽の心でイエスの名を利用する人たちは、いつか、必ず裁かれなければならない。そのときには、その本心が暴かれ、神のみ前から追放される、と。

この箇所の中に、二つの不滅の真理が示されている。人間の誠意を示す道はただ一つ、

それは実行することである。美しい言葉は立派な行いの代わりにはならない。愛を示す唯一の道は服従である。人を愛すると言いながらその人を悲しませることをしたのでは、愛していることにならない。・・・・・・・

私たちが小さい時に、「お母さん大好き」と言うと母親は笑いながら、それでも真面目に、「そうだったら、もう少し態度で示してくれたらいいのに」と言うような経験をしたことがないだろうか。我々は口先だけで神への信仰を告白しながら、生活でそれを否定していることがあまりにも多いのではなかろうか。信仰の信条を述べるのは容易である。しかし、クリスチャンとして生活することはむつかしい。行いのない信仰は矛盾があり、服従のない愛はいつわりである。・・・・・・・・

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この箇所の背後には審判の思想がある。ここに一貫して流れる思想は、いつか、必ず裁きの日が来る。ということである。人は長い間外見をつくろい、偽装することができたとしても、いつか偽装は見破られ、偽装ははぎとられる時が必ず来る。我々は、言葉で人を欺くことが出来ても、神を欺くことはできない。【あなたは、遠くからわが思いをわきまえられます】(詩篇139:2)

【主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか】・・・・・・

しかし、そのとき、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れていけ』

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今日、はてなブログの本部の方から、ブログをはじめて一年になりますと通知をいただいた。去年の2月19日に始めた。2月26日以後は、一日も欠かさず、記事を載せてきた。この間、山あり谷ありという状況ではあったが、おおよそ、400くらいの記事を書いた。どこかの運動選手の言葉ではないが、正直、自分をほめてみたい。今後はどうするか思案中である。少しマンネリ化してきたせいもあるのか、この一か月は、極端に読者が減った。身から出た錆と言われれば、返す言葉もない。深く自省しなければならない。だが書き続けることは止めない。それが主から頂いたことだから、と。信じている。

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2月18日(木):天の御国は

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福音書の中に「天の御国は」と言う言葉が、30回ほど出てきます。その一部だけ、マタイの福音書からみて見ますと。

マタイ13章。

24節・・天の御国はこういう人にたとえられます。

31節・・天の御国はからし種のようなものです。

33節・・天の御国はパンだねのようなものです。

44節・・天の御国は畑に隠された宝のようなものです。

45節・・天の御国はよい真珠をさがしている商人

47節・・天の御国は地引網のようなもの

52節・・天の御国の弟子となった学者

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その他の個所も概ねそうですが、イエスは天の御国について語る時、常に譬えをもって語られていることがわかります。これは決して偶然ではありません。天の御国がどのようであるのか、譬え以外に語る方法がなかったのです。天の御国は、われわれの理解をはるかに超えていて、われわれの言語で言い表すことの出来ない世界を、イエスは、譬えをもって表現したものであろうと思います。私たちも、時々、会話の最中に、譬えを持ち出すことがあります。直接言葉で説明しきれないとき、表現しきれない自分の思いを、しばしば、「例えばですね・・・」などと話をつないでいく経験は、多分、誰でも持っている事だろうと思います。イエスもこう言われました【あなた方は、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう】(ヨハネ3章12)・・・・・・・

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【天の御国は】とイエスが語り始めても、「さて、それはどんなところだ?」と期待して読んでいっても 、御国の街並みや、住人たちの顔だち、住まいなど全く示されていません。どうやら話をはぐらかされているような、気持ちにされるのですが。「天の御国は、よい真珠を捜している商人のようなものです」と言われても、はなはだ納得しかねるのです。このどことなく詐欺師的な言葉の裏に、偉大な真理が隠されているようなのです。天の御国は、世にふたっとない真珠です。商人はそれが欲しくてたまらないのです。彼はすべてをなげうって、美しい真珠を手に入れようとします。その姿が、天の御国を表しています。イエスはこう言われているのではないだろうか。天の御国がどのようなものであるか、すべてわたしにゆだねよと、主は言われているのかな?・

八木重吉がその詩の一行に。

【キリストがうそをいうはずがない】と書いてある。まず我を信ぜよ。そこからすべてをはじめよ・・・・と。

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春の嵐も一応収まった。ただ雪解けが進まない。私が新潟直江津にいた頃、上越市は有数の豪雪地であったが。雪解けの速さには驚いた。春が近づくとあっと言う間に、雪が消えるのである。秋田は雪が、積雪が無くなるのに相当の時間がかかる。

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昨日は大風だったね・・びっくりした?・・はじめて、こんな風・・春先は風が強い・・あたし引っ越そうかしら?

 

2月17日(水):雨にも負けず

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雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫な体をもち

欲はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

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一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れず

よく見聞きし分かり

そして忘れず

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野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその穂の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

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北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼうと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしはなりたい

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2月16日(火):聖書を読むことについて

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イミタチオ・クリステイ「第一巻5章」

Ⅰ・・真理こそ、聖書のなかに求めるべきで、名文を求めるべきではない。聖書はすべて、その記されたときの、その精神でよまるべきである。(ローマ15:4)それゆえ、それより言葉の微妙ないろどりよりも有益なことを、聖書に求めるのでなくてはならない。それで私たちはかざりけのない信心の書を、気高く深遠な書物と同様によむべきである。著者の権威や学問の多少を気にかけず、まじりけのない真理へみちびかれて、読むがよろしい。誰がそういったかを訪ねず、なにが(その書のうちに)いわれているか、その内容に注意すべきだ。・・・・・・

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幼子のように

Ⅱ・・人の世は過ぎ去るが、主の真理は永遠にほろびることがない(詩篇:116;2)人をえり好みせず、いろいろな方法で、神は私たちに話しかけられる。聖書を読むとき、すらっと読み過ごすべきところで、よく理解し論じようとするため、好奇心に妨げられことがよくある。もしあなたが進歩をそこに求めるなら、謙遜に、すなおに、忠実に書物に接すべきである。けして学問の名声を得ようと望んではならない。すすんでたずねなさい。そして、黙って聖人たちの言葉を聴くがよろしい。また、年長者たちの話を不快に思ってはいけない。彼らがそうした話をするのは、理由なしにするのではないから。・・・・・

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今日は一日荒れ模様。マルの散歩も10分で切り上げ。後は一日中籠りっぱなし。昨日福原兄を訪問。思いの他元気そうで安心した。

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トマスおじさんいろいろうるさいのね・・500年前の人だからね、現代の間尺と会わない部分もある・・そうねぇ・・でも忘れていけないこともある。・・あたしノー・サンキュウ・・それが現代っ子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2月15日(月):み言葉への感動

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今朝の一日一章のしまいの部分にこう書かれている。

【神の言葉を聴き、深い感動を受けるとき、私たちは語らずにはおられないのである】

今年の年頭の計画で、伝道を掲げてあるが、思いがけぬ大雪で頓挫している状態である。いつまでも天候などのせいにしていられない。新聞広告、トラクト配布、個別訪問

あらゆる手段で、宣べ伝えることをしていかなければならない。主と共に・・・

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2月14日(日):信仰とは 榎本保朗

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エスは、その御業を行うとき、必ず私たちに何かを求められる。たとえば、カナの婚礼(ヨハネ2章)のとき、水をぶどう酒に変えられたイエスは、水がめに水をいっぱい入れなさいと言われた。またラザロをよみがえらせるとき、「石を取りのけなさい」

と、そして「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と言われた。これは私たちの信仰の鍵だと思う。私たちは、かめに水を満たすことなく、石を取りのけることなく、神の栄光を見ようとする。しかし、かめに水を満たすことが、石を取りのけることこそが信仰なのである。

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