イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月6日(金):残日録

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今日は青森に住んでる兄の所へ行って来た。この日に来てくれとの連絡が入っていたので,朝のウオーキングも中止し、早くに出かけた。往復の道のり200キロ。いつもはひょいひょいと行って来れる距離なのだが、初めて途中眠気を覚え、パーキングエリアで、行きも帰りも、30分程仮眠をとらねばならなかった。・・・・・

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兄夫婦は30数年前、一人息子を事故で亡くし、以来、鬱々たる日を過ごしてきた。昨年暮れには、奥さんも亡くし、一人、施設に入っている。今日の呼び出された要件は、妻の一周忌までは頑張るが後を頼むとのことであった。気楽に任せておけ、とは言い難かったが、余り持ち物が多いのも、魂の平安を損ねるらしい。有象無象の輩が、うごめいていて不当な金銭をせびられているようだが、本人も気づいているのだが、事を荒立てず、何事も穏便に、穏便にと思っているらしい。

「死に装束にポケットはない」とは誰の言葉であったろうか。この地上のものはなに一つ持っていくことはできない。そのもどかしさの中に兄はいるのか、と思うとどこかもの悲しい。

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『母の胎から出たときのように、また裸でもとの所へ帰る。彼は自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない』

(伝道の書5章15節)

昔「三屋清左衛門残実録」というテレビドラマがあった、隠居した武士の残実(日)記録を描いたものだった。仲代達也が、その寂寞感を見事に演じていた。

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです』詩篇90篇10節。

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