イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月7日(土):主よいつですか

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自分が不死身だとは思ったことはないけれど、幼い頃から、死ということを実感として想像出来なかった。それで、わたしはいつになったら死ねるんだろう、などと漠然と「危惧」を抱いてきた。特に死にたい願望があるわけではないが、そもそも、「入院」ということをいまだかつてしたことがない。転職する時の履歴書には、特記事項として「身体強健」と記す。その通り、仕事を病気で休んだことがない。古文に(出典は忘れた)友とするには、わろき者に入るらしい。・・・

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それで、最近は「主よ、いつ私を召してくださるのですか」と密かに問うている。50歳を過ぎる頃になると「自分の人生勝負あったな」と感じることが多くなった。これ以上どうあがいても、たいいしたことも出来まい。そんなとき、いつもパウロの言葉が私をとらえる。

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『わたしにとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、わたしの働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、わたしにはわかりません。私はその二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。(ピリピ人への手紙1章21節節~24節)・・・・・・
つらつらと思い返せば、もう一つ二つやり残していることもある。結局のところこの意気地なしは、「主よ、今しばらくのご猶予を」と祈らざるを得ない。