ステパノの長い説教が終った。このような説教のもたらす結果は明白である。ステパノの招いた死がやってきた。しかし、彼は人々の顔がはげしい怒りに歪んでいるのを見なかった。時間を超越して、神の右手に立っておられるイエスを見つめていた。そして、この事実を告げたとき、人々は、ステパノが神を汚しているとしか思わなかった。神について汚し言を言う時の罰は、石うちによる死刑だった。これは合法的な裁判ではなかった、私刑である。なぜならユダヤの最高法院である議会は、死刑を権限をもっていなかったからである。ステパノを殺したのは、盲目的で、自制心を失った、爆発的怒りであった。・・・・石うちは次のような方法で行われた。罪人は高いところに連れて行かれ、底から突き落とされた。証人たちは突き落とす仕事に手を貸さなければならなかった。そして上手く死んだかどうか確認し、死んでいない時には、大きな丸い石を死ぬまで投げ落とすのである。・・・・・・これを解く鍵は、ステパノが、自分に加えられたすべての仕打ちの彼方に、み手を広げて待っておられる主を見た事であった。ステパノは殉教者の死が、キリストのみ座に通じる門口だと思っていた。このことを解く鍵は、ステパノが、自分に加えられたすべての仕打ちの彼方に、み手を広げておられる主を見た事にあった。ステパノは殉教者の死が、キリストのみ座に通じる門口だと思っていた。・・・・・ステパノは主の模範に従った。ステパノはイエスご自身を責める者の為に赦し祈られたように祈った(ルカ:23・34)。キリストに従う人は、それが人間の側から実行するのは不可能に思われる事柄であっても、やり通していく力をいつも見いだすことを、歴史が教えてくれる。・・・・恐ろしい騒ぎも、ステパノは不思議な静けさに仕上げてしまった。眠りについたのである。ステパノには、あたかも殺されるのは当然であるかのように、正義をやり遂げた人の安らぎがあった。・・・・・・8章1節の前半は、この箇所に加えられる。(方が良い)。この場面からサウロが登場する。異邦人のための使徒とされたこの人は、ステパノの処刑に熱心に賛成した人であった。アウグスチヌスは言ったように「教会がパウロを与えられたのは、ステパノの祈りによる」。サウロはどれほど一生懸命に忘れようとしても、ステパノの死の様子を
忘れるわけにはいかなかった。このように、ごく初代において、すでに、殉教者の血は教会の基となり始めていた。