イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月27日(土):炎の人々 宮坂亀雄師 はしがき

初代キリスト教の歴史は殉教の歴史である。主イエスは弟子たちに向かって、「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と仰せられた。(マタイ16:2)。この十字架を負うとは、キリスト信仰のために受ける苦難を意味している。言葉を代えて言えば、この主のみ言葉に従って、あらゆる苦難にもかかわらず、イエスをキリスト、己が救い主として告白する者が、主イエスの弟子であるということである。・・・・・・

使徒たち、初代教会の教父たち、信者たちを見ると、彼らはみな、正しく国法を守り、勤勉い働き、従順であり、平和を愛し、隣人に親切であり、つつましく善良な市民生活を営んでいた。それなのに、彼らは、イエスをキリスト、救い主と告白しただけの理由で、あざけられ、侮られ、財産を没収せられ、むち打たれ、鎖につながれ、牢に入れられた。あるいはまた、石で打たれ、野犬の如く追い払われ、乏しくなり、飢え、渇き、悩まされ、苦しめられた。この世は彼らを容れるにふさわしところではなかったのだ。ゆえに荒野をさまよい、洞窟や地下墓地に身を隠して神を礼拝した。・・・・・

しかも彼らは信仰によって強く去れ、女や子供に至るまで、敢えて釈放されることを願わず、拷問を受けた。むしろ、イエスのあかしのために、十字架を負い、迫害を受けるに価する者とせられたことを、喜び感謝した。屠り場に引かれてゆく子羊の如く柔和に、常に死を覚悟していた。主イエスのためには、いかなる迫害も、死をも厭わなかった。血を流すことなくしては、信仰を生き抜くことも、主のあかしを立てることができなかったのである。彼らは死に臨んで、なおも復活の希望を抱き、地にあってみ国の栄光を偲び、屈辱の牢獄のなかで、神自ら天にて義の冠を用意してくださることを確信し、勇敢に善き信仰の戦いを戦い、走るべき道程を走りとおした真の信仰の勇者たちであった。・・・・・

こうした信仰の勇者たちによって、主の福音は広まり、各地に教会が打ち建てられてきたのである。血汐で朱に彩られたる教会の歴史。それが初代教会の教史であったのである。まことにテルトリアヌスの言ったように殉教者の血は「教会の種子」であった。

私は、今、読者と共に、こうした勇者たちの戦いのあとをかえりみて、信仰の励ましを受けようと願って、この稿を起こしたのである。【1979年8月:宮坂亀雄】。

この人の著作には、他に「ローマ時代の殉教者」。「使徒たちの物語」が三部作として出版されている。何編かはこのブログでも取り上げて紹介してきたが、改めて、読み直してみたいと思う。