イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

5月29日(月):夜明けへの道

ルカの福音書:(24章13節~35節)。これはもう一つの不朽の短編である。

(1):日没に向かって二人の人が歩いていた。しばしば指摘されてきたように、この二人がイエスに気づかなかった理由はそこにあった。エマオはエルサレムの西にあった。日が沈みかけていた。沈みゆく太陽が二人をまばゆく照らし、そのため彼らは主イエスを見分けることができなかった。クリスチャンとは、日没に向かって歩む者ではなく、日の出に向かって歩む者である。昔、イスラエルの民は、荒野を日の出に向かって旅したと言われている(民数記21:11)。クリスチャンは、夜のとばりに向かってではなく、夜明けに向かって進んでいる。エマオ途上の二人が、悲しみと失意のなかで忘れていたことは、まさにそのことであった。

(2):イエスのするどい洞察力が見られる。この二人には、万事が無意味に思え割れた。彼らの夢も希望も露と消えた。彼らは「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと望みをかけていました」。という悲しみの言葉には、この世のもの欲しそうな、うろたえた悔恨の情が集約されている、これは希望を葬り去った人の言葉である。それからイエスが現れて、言葉を交わした。すると、急に生の意味が明らかになって闇が光となった。ある小説家がその小説の主人公に、恋に落ちた相手の女性に向かって言わせている。「君の瞳の中に生きているものを見るまでは、ボクは生の意味が分からなかった」。イエスに出会う時、たとえ、途方にくれている時でさえわれわれは生の意味を知ることができる。

(3):イエスの配慮を読み取ることができる、彼は同じ方向に行く旅人のように振る舞った。自分から割り込むことをせず、彼らが招きいれてくれるのを待った。神はこの世で最も偉大な、危険な贈り物を賜った。それは自由意志である。われわれはそれを、キリストを心に迎え入れるために使うことも出来れば、むなしく過ぎ去らせることもできる。

(4):パンをさくのを見て、彼らは主と知った。これは一見サクラメントを意味しているように思われる、しかし、」そうではない。それはただの普通の家の普通の食事だった。普通のパンを分けられたのを見て、この人たちは主を認めたのである。いみじくも指摘されているように、おそらくこの二人は、5千人の給食の場に居合わせており、彼らの貧しい家でパンを裂くのを見た時、咄嗟にそれが主の手である事を認めたのであろう。

(5):この二人は歓喜の体験をした時、それを友に分かち与えようと急いで出発した。エルサレムまでは引き返すには、11キロの道のりがあった。だが、彼らはその良い知らせを、自分たちだけで持っていることはできなかった。キリスト教の使信は、誰かほかの人に分かち与えるまでは、完全なものにはならない。

(6):彼らがエルサレムに着くと、そこには既に自分たちの体験を分かち合っている人たちがいた。クリスチャンn栄光は、同じ体験をもつ者たちの交わりに生きるということだ。よく言われる要に、真の友情は思い出を分かち合い、「覚えている?」とたずねあう事できることに始まる。われわれはみな、主イエスについての共通の体験、共通の記憶を分かち合う人々のすばらしい交わり入れられている。

(7):イエスはペテロ二現れた。これは未だ語られざる世界で最も感動的な物語と言えよう。イエスが自分を否んだ男に真っ先に現れたということは、何と美しい話であろう。イエスは自尊心を帳消しにして、悔い改めた罪人を迎え入れたもう。それこそイエスの栄光でなくてなんであろう。・・・・・

(W・バークレー解説より)