イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月23日(日):エマオ途上の顕現

『彼ら互いに言った。「道々お話になったとき、また聖書を解き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」』(ルカ24章32節)

復活を解く鍵:この物語の中心点はどこにあるのでしょうか。いうまでもなく道で出会った見知らぬ人が、二人の弟子たちの願いを聞いて、エマオの旅舎にはいり、そこでパンをさき、祝福して与えたとき、二人の目が開けて、その人がイエスであることがわかったというあのくだりです。つまり、二人の弟子たちは、見知らぬ人と食事を共にしたとき、復活の主の「顕現}を実感したのです。ここに大多数の復活物語を解く手がかりがあります。

 新約聖書に記されている復活物語を通観して気づくことは、復活の主が一般人ではなく、信者である弟子たちに、それもたいていに三人以上の集団の人々に現れた出来事であったということです。いいかえるならば、復活は、弟子たち二三人以上集まり、共に食事をし、共に交わっている場所に最もしばしば現れた信仰的、集団的な体験であったということであります。

 ここにおいて私たちはイエスが生前に語られた一つの言葉を思い出します。それはマタイの福音書18章20節のあの有名な言葉です。

 『ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、私もその中にいるのである』

 ここで「その中にいる」という句は「弟子たちの心の中にいる」という意味に解されがちですが、実は「弟子たちの間に、その交わりの中にいる」という意味です。つまり、二三人、またはそれ以上の人がイエスの名において集まり、心を合わせている所には、イエス御自身もそこにおいでになるというのです。これはイエスが生前に言われた言葉ですが、復活後、召天に際しても同じことを言われました。

『見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである』マタイ28:20.