「現代の主顕祭」と題する小説の中でシシル・ノースコットは、ある青年のキャンプでの協議の模様を伝えている。このキャンプでは、各国の代表が一緒に生活していたが、「ある雨の夜、キャンプに参加している人たちは、キリストのあかしをする方法について話し合っていた。彼らはアフリカから来たマリアという女子青年にたずねた。マリアは答えた。『私たちは伝道会もせず、パンフレットの配りません。ただ、一組か、二組のクリスチャン家族を村に派遣して、そこで生活させます。人々はクリスチャンの生活を見て、自分たちもクリスチャンになりたいと思うのです』・・・・・・・
究極的には、決定的に説得力を持つ議論は、クリスチャン生活の実践である。
イエス・キリストについて話をすることが不可能だと思われる人たちがいる。彼らの道徳的無感覚、知的な誇り、皮肉な嘲笑、心を覆う幕、等が、イエス・キリストに対して無関心にさせるのである。キリスト教会が弱いのはクリスチャンが、議論において弱いのではなくて、真にクリスチャンとして生きる人が少ないからである。
(W・バークレー)