イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月26日(日):まことの光

 

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『すべての人を照らすまことの光があって、世に来た』(ヨハネ福音書1章9節)

暗い罪の世に、朝の光が差しいでるであろう。神はこのように語りたまいました。しかし、時はいたずらに流れ去り、何百、何千年かは、過去の彼方へ黙って消えて行きました。時を待つというのは、容易なことではありません。待ちくたびれてしまった者も大勢いました。しかし、主のお約束を堅く信じて、イスラエルが慰められるのを待ち続けた人もおりました。それは慎み深いと評されていた人たちでした。その深い闇に包まれたある夜、死の陰にうずくまっていた人たちが、大きな光を見たのです。すべての人を照らす真の光が、世にあらわれようとしていたのです。・・・

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救世主は生れたまいました。

真の光り。今、私たちに、神がどのようなおかたであるかということがわかりました。神は限りなくあわれみ深いかたですから、神にそむいて罪に落ちた人間が地上では滅びているのに、ご自身は一人天にとどまりたもうことができなかったのです。が、またそれと同時に、神は罪に対して、燃えるような激しい怒りをいだいておられたので、み子によって、人間の罪が贖われるまでは、汚れた人間に手をふれたもうことができなかったのです。・・・・・

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今、ここで罪が何を意味するものであるかを、よく考えて下さい。愛にいます神は、その御一人子を、たとえどのような小さな苦しみであろうと、苦しめたもうことはで来ません。しかし、人類が救われるためにみ子は、苦い苦難の杯を、一滴も残さず飲み干さねばならなかったのです。カルバリにたてられた十字架からは、今や、地上のすべての罪人を照らす、神の慈愛の真の光りが輝いています。・・・・・

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罪人を救うために、神が何をして下さったかを、今、私たちに分かりました。神は私たちすべての者のとがを、み子に負わせたもうたのです。そして、すべてみ子を信じる者には、神の子となる権利を与えてくださいました。こうして光は人間の世界に来たのであります。

主イエスよ、日々のつとめよりしばし離れて、真の光りの中に立つ勇気を与えたまえ。しかして、わが心のかくれたる欲と汚れし思念とを、み光によりて我に示したまえ。主よ、我をあわれみて、光の中にいます主を仰がしたまえ。主の成就したまいし救いのみわざのうちに、わが魂のいこうために、偽ることなく主に語る勇気を、我に授けたまえ。み前にあって、永遠の光りの中に立つ日まで、主の真理によって我をきよめたまえ。アーメン。(O・ハレスピー著:みことばの糧;12月26日日課)より。

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