イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月23日(金):日本人の回心 (4) 内村 鑑三

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・・・・生い立ちとヤソ教入門・・・・

内村鑑三は、彼の日記を「生物学者の写生帳」と呼び、その中には霊魂が種子からから成長し、熟して穀物になるまでのあらゆる変化が記録してあると語っている。今日われわれがその写生帳を読むときに、彼の霊魂の苦悩、変化、成長をありありと見ることができる。彼の体験的信仰の道程は、日本的多神教からシュッパッツして唯一神教へ、さらに再臨の信仰へと進んでいることを知ることができる。こうした救済の流れの中で回心がどんな形で起こったかを探ってみたい・・・・・・・

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彼は文久元年上州高崎藩江戸詰めであった内村金之丞と母ヤソの長男として江戸小石川に生まれた。武士の子の誇りと儒教的環境の中で成長したが、生来信心深い性格であり、神々を尊敬し遊学途上に点在する神社の一つ一つに頭をさげ、しばらく祈りをするくらいであった。キリスト教との出会いは、ある日曜日の朝一人友人に外人居留地で美しい婦人が歌をうたい、背の高い男が壇上で手を振り体をくねらせながら叫んだり、わめいたりするのが見られると誘われ、ショーを見るつもりで足を運んだのが異教との出会いの動機となった。これは単なる物見遊山のたぐいであって、真理探究というものではなかった。

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けれども明治10年9月、17歳の時には札幌農学校生徒として、今までいささか違った形でキリスト教と対面しなければならなかった。すなわち、前日に洗礼を受けたばかりの一期生たちから「イエスを信じる者の誓約」を前に署名を迫られ、最後まで抵抗し続けたが遂に署名させられた。しかし、このクラーク式キリスト教との対決によって、宇宙は唯一の神によって造られた、そして今も支配されているとの覚醒は、多神教とそれらに由来する迷信を断ち切り、一神教的神認識の中に儒教的教養と武士の誇りを完全に止揚し、それら以上の神の中に発見することが出来た。外面的には強制力をともなった署名も内面的には神との対話を可能に」し、遂に明治11年18歳の時に札幌の創成川のほとりの外国宣教師館においてM・C ハリスによって洗礼を受けた。・・・・・・

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・・・・感傷的キリスト者・・・・

農学校のキリスト教は、ニューイングランドの伝統的ピユーリタニズムの流れをくむ倫理的キリスト教で、自らを清め世を救おうとするものであったが、まだこの段階では自己の罪を深くとらえてその解決を目指したものではなかった。彼は東京へ出て活躍するのであるが、浅田タケと結婚し一人の子供が出来ているにもかかわらず離婚するといいう苦杯を味わうことによって、自己の罪の問題に直面し、罪を自己のものとして深く内面的にとらえ、具体的罪との対決がこの辺りから始まっている。故事に「山にある者は山を見ず」と教えるように、思い立ってアメリカに渡ろうと決心しているが、この主目的は彼の罪意識お克服を目的としたものであった。その第一歩としてペンシルベニアのエルウイン児童白痴院の看護夫として働いた。この労働は神の怒りから逃れる唯一の避難所として選んだところであり、自分の罪の肉体を酷使して霊的浄化に達し罪の赦しと救いを得たいとの願いによるものであった。しかしながら、この地における彼の信仰問題は信仰義認という聖書の内容がテーマであり、ある時には信仰によって聖徒とされたことを味わい、また生まれて天上と永生とをチラとみることが出来たと語り、このような神聖な一瞬はこの世のあらゆる喜びの数年間に匹敵するという体験すらしているが、反面、自らの罪の問題については依然として解決できず、アメリカにおいてさえも自分の憎むことを強制する内なる罪の矛盾に耐えられなくなり、わずかな路銀をポケットにして

「キリストこそ、そのすべてである」との信仰を基としてアーマスト大学に新島襄が紹介したJ・H シーリー総長を訪ねて行った。・・・・・

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・・・・十字架を見なさい・・・・

アーマスト大学入学当時の彼は依然として、品性の完成を目指して努力する熱心な修道者であり、ひたすら神の子となるために努力するだけで、その心には罪の赦しから得られる歓喜や平安は全くなかった。総長は、ある日罪に悩む異国からの学生を呼んで慈愛のこもった言葉で内村に語った。内村にとってそれが生涯忘れ得ぬ言葉となった。・・・・・・

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「内村君、君は君のうちをのみ見るからいけない。君の外を見なければいけない。なぜ己を省みることをやめて十字架の上んい君の罪を贖い給いしイエスを仰ぎみないのか。君の為すところは、小児が植木を植木鉢に植えてその成長を確かめんと欲して毎日その根を抜いてみると同然である。何故、これを神と日光に委ねまつり、安心して君の成長を待たぬのか」と、

キリストの十字架の出来事の意味を示されて、彼の罪の苦悩は冬が去り春の暖かさによって堅い氷が徐々にとけゆく如くに罪からの赦しを体験して、9月13日の日記には、「夏の午後、ふかく自分の罪を認め、十字架につけられたたもうイエスのうちに、、その赦しを発見した。あまりの厳粛さに、聖なる洗礼を受けずにこの場を済ませることはできぬと考えた。

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丁度そのとき、車軸を流すような夕立がやってきた。天自らが聖い式典に招いているのだと思い、その雨の中に飛び込み、敬虔な態度で全身を『天からの水』に浸した。・・・いらい自分をキリストの弟子と表白するに至った」と述べている。十字架のイエスの贖罪にふれることによって、26歳の時に決定的回心が起こっている。・・・・・・・・

・・・・復活と再臨信仰・・・・

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内村の信仰はさらにキリスト論的プロセスを通して、贖罪信仰から復活信仰へと進み、次のように述べているつまり「『主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである』(ロマ525)と。イエスの復活は、われらの罪がゆるされ、われらがすでに彼によりて義とせられし結果である。人類の罪が許され史結果として、その代表者なるイエスがよみがえらされたのである」と、

エスの復活は人間の罪が赦された信仰的昭子であると理解している。さらに彼の信仰は、再臨信仰によって完成されるのである。彼は大正初期に一種の信仰的危機に直面したのであるが、それはキリスト教国が相互に憎しみを持ち武器を取って殺し合う状態を見て、信仰の根底が揺らぐのを感じ、キリスト教自体に疑問を覚えた。ところが大正7年、58歳の時に再臨信仰にふれて、「その元理は根本的である。キリストの再臨はその一面は万物の復興である。また宇宙の改造である。また聖徒の復活である。また最後の裁判である。人類のすべての希望を総括したるもの、それがキリストの再臨である。」と。信仰上の究極の希望を終末の時に託することによって、彼は「余はキリストの再臨が分かって人生がわかった」と、満足して述べている。私自身も、彼の再臨信仰にふれて、いままでは彼方のことであると考えていたものが、すこしづつこちらに近づいているように思うようになった。・・・・・・・

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・・・・むすび・・・・

内村のヤソ教入門によって始まる信仰は、多神教から唯一神教としてのキリスト教への転向から始まり、自己の罪に深く苦悩し、洗礼を受けてから約十年後、ニューイングランドでキリストに出会って回心したと言っている。彼の信仰の形態は非常に明解で、日本人としては先例がないほどに徹底したもので、神認識・・罪の自覚・・キリストの贖罪による赦し・・復活・・高挙・・再臨審判という聖書が証言しているキリスト論的定型を取っている。なかんづく、彼の生涯において神認識、贖罪、再臨の信仰は三大変化をもたらしたと振り返っている。そして、昭和5年70歳の時に心臓発作におそわれ、「福音宣教のため奇跡をもってこの病を癒したまえ」といのりながら主のもとに召されて行った。

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