イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月24日(土):日本人の回心 (5) 森永 太一郎

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・・・・生い立ちとと商人魂・・・・

彼は伊万里焼で有名な佐賀県の陶器問屋、森永常次郎と母キクの長男として慶應元年に生まれた。彼が四歳の時父は死に、母もまた幼い彼を残して再婚した。それからの彼は、「孤児同然となった私は、それ以来伯父、伯母または近親の家を転々として、ようやく露命をつなぐようになった」と、親戚中をタライ回しにされ、冷遇されたことを記し、先に死んだ父を、再婚した母を求めることが切であった。そうした中で母方の祖母チカは、彼が金を拾って知らぬふりをしているのを見て、「拾ったお金や、盗んだお金は人の心をゆがめるものです。自分で汗をながして得た金だけが、本当に値打ちをもつものだよ」と、人の道を教えたり、母に代わって心をそそがれたことを、「実にこのお祖母ちゃんがあったゆえに、孤児であった私は一人前に大きくなることが出来たのです」と感謝している。・

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次に伯父山崎文左衛門の養子となり、彼の下で商業の原則、すなわち「第一に正しい商品でなければ販売してはならぬ。第二に定価は決して変更してはいけない。第三は十年を一期として考える」ことと、資本金五十銭を与えられて世に送り出された。この時代は家庭的不遇の中にあって親の愛情を渇望しながら、伊万里の商地将来身を立てるためにその精神を叩きこまれた時代であった。・・・・・・・・・

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・・・・罪の自覚と第一回目の回心・・・・

彼は渡米の動機について、「明治16年横浜に出て伊万里焼、九谷焼、を外国商館に売り込みに従事しつつあった。それで明治21年日本雑貨を持って渡米した」と述べているが、その販売には失敗し、メソジスト・ミッションの無料宿泊所をねぐらと定め、皿洗いからはじめて二年の苦しい日が過ぎた頃、キリスト者の老夫婦が「あなたはよく働いてくれる。あなたのおかげで、私たちは楽しい生活がおくれます」との心温まる感謝の言葉にふれて、異国の地で少しづつ人を信じるようになり、老夫婦から貰った聖書を読み始めた。そのとき彼の心に迫った言葉は「汝の隣人を愛せよ」と、

彼の生活とは全く逆のイエスの教えにふれ、一種のインスピレーションを感じた。彼はそこで幼い自分を残して再婚した母への恨み、肉親の冷たさに対する不満の気持ちが原因で人を信頼することが出来なくなっているこの自分が、罪の存在であることに気付くことになった。次に彼の心をゆさぶる出来事は「父よ彼らを赦し給え、そのなすところを知らざればなり」

とのイエスの赦しふれたことである。さらにステパノが殉教する時に、

「主よ、この罪を彼らに負わせ給うな」という祈りの中で赦したことは、多年の肉親に対する恨みと不満を自分の方から赦す気持ちになった。そして、「ステパノが真剣に祈った如くに祈って見よう」と、主に心をつないだ時に、「愛する太一郎よ、汝の罪は許されたり、汝の名は天にある生命の書に記録されたり」との声を心に聞くことができたと記している。そして、明治23年、26歳の時ハリスによって受洗し、「僕の体もこれですっかり洗い清められたのだ。今までの僕は日陰者であったのだが、これでこそ社会に出られるようになった」と、新生の体験をすることが出来た。

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・・・・森永西洋菓子製造所誕生・・・・

彼は救われた者の歓喜と伝道の使命を持って日本に帰ったが、誰からもヤソとかバテレン言われて相手にされず、伯父の籍からも放り出され、遂に洋菓子製造の技術習得のために再び渡米し、帰国後赤坂に洋菓子製造所を開業した。彼の洋菓子はアメリカ公使バック夫人にみとめられ、さらに宮内庁御用達ともなり、次第に世間から認められるようになって行った。加えて、北浜銀行頭取岩下青周(岩下壮一神父の父親)が相談役として助けるほどになった。しかし、企業的成功とは裏腹に、物質的豊かさはに溺れてしまい、堕落し、遂には妾を書こうようになって家庭も乱れてしまった。それについて彼の友人松野は、「信仰生活は加速度的に低落した。友人らもようやく見限って、ただ一人松野だけが、迷える羊を監視するかのように時折訪問するのみとなった。その松野の訪問さえ厭い避けるようになった。と述べるように、棄教一歩手前の状態であった。・・・・・

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・・・・罪人の中、われそのかしらである・・・・

彼の人生の前半は人格形成、信仰形成期であったし、中期は森永製菓の形成発展期で、信仰は商法の手段とされて有名無実な時であったが、彼のございます。晩年は宗教的人生の悔い改めの時であった。それは妻セキの病から始まり、死においてクライマックスに達し、「私は永い間堕落生活から真実の信仰復興を与えられました。それは昭和5年12月末であたかも30年間の迷いの夢を醒めさせられたのです。」と、告白し祈りの中に『立って行け」との黙示を受けて、立教出身の信仰者、松崎半三に社長の座を譲り、72歳で召される迄、北陸、山陰、沖縄に至るまで「われ罪人のかしらなり」と、自己の一切を告白し、罪からの赦しを証しして歩いた。時には39度の高熱と高齢を買えりみず、「話すのが私のお勤めです」と無理をし、倒れるまで奉仕して、昭和12年1月24日、主に召された。・・・・

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・・・・むすび・・・・

彼の回心の特色を二三あげてみると、幼少の頃の心の空白すなわち父と母の愛を渇望したけれど現実生活の中では、これを満たすことができなかった。しかし、信仰によって自分の生命を造られたのは神であり、造り主が真の命の父であると、「天なる神をアバ父よと呼ぶ」と、真の父を理解している。第二はキリストの赦しである。が、キリストの故に自分の罪が一切赦されているのであるというのではなく、むしろステパノの劇的死に融発されたセンチメンタルな信仰の理解であったから、経済的生活に信仰の深みは受肉するところとならず、信仰の果実は実を結ばなかった。おそらく贖罪の深みを理解したのは二回目の回心の時であったろう。そのとき、彼は「私の如き罪人を神は赦し給うて」と語る裏面には、自分の不信仰から来た不倫理が妻を傷つけ、死においやったこの大罪を、キリストは依然として十字架の上で赦しておられる姿を見た時に、主の赦しと救いの徹底さを体験した。そして彼は数多い背教者、棄教者のある中で再び悔い改め、余生を全く主に生ける捧げものとして生きることができたのは、主の赦しの偉大さを体験した結果であろう。

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