イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月29日(木):日本人の回心 まとめ

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これまで、日本人の回心。ということで、窪田空穂、植村正久、森明、内村鑑三、森永太一郎、5名の回心物語を書いてきた。もとより、この小さなブログで、人の回心物語りを、十分表せるはずはないが、いくつかの、日本人が回心する際の特徴的な事柄が、気付かされる。・・・・・・・

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欧米各国の回心物語に較べ、日本人は独特なコースをたどる。それは、日本人の場合、まず宗教的文化の土壌が欧米キリスト教国と著しく異なる。

日本人がキリスト者に召されるには、日本的文化土壌からの脱却が必要である。日本の場合、多神教的宗教観があり、仏教と儒教の混合宗教を背景として持っている。多神教から唯一神教への移行は意外に容易であるが、

混合宗教からの脱却は、きわめてむつかしい。そのことは、かの5人の回心者のあり方を見ればわかる。一旦回心して、洗礼を受けるが、たいていの人がやがて挫折し、棄教寸前まで行き、「真の回心」への道のりは遠い。多くの人は、キリストの言葉を「日本の修身」のことばとしてとらえてしまう。キリスト教徒になって良い人間になりたいと、願う、しかし、その願いの中には、どこか、センチメンタルな思いが含まれている。世の人々からは、多分に「西洋かぶれ」とみられていたのもそうしたことの表れであったかも知れない。・・・・・・・・

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ルース・ベネディクトという人が「菊と刀」という本を書いた。それは、日本の文化は、「恥の文化」であり、欧米キリスト教国では「罪の文化」

が根付いている。日本人が往々にして二度の回心を経験するのは、「恥の文化」から脱却するためでもあるように思われる。森永太一郎の場合、その典型的な例である。彼はキリスト教にふれ、洗礼を受けキリスト者とはなるが、その信仰姿勢はあくまでも、センチメンタルである。感傷的キリスト者にとどまっている。彼が真の悔い改めをするのは、永年連れ添った妻サキの死によってである。自分がどんなに罪深い人間であったか、彼はそのことによって気付かされた。・・・・・・・・

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「恥の文化」は結局のところ、この世の出来事である。こういうことをすれば人様に笑われる。すべてにおいてこの考えが優先する。人の視線を気にかけ、人に笑われない、人に迷惑をかけない、そうした生き方が恥の文化であり、そこには神の目を心に留めることは無い。「罪の文化」の住民は、神の前に自分はどういう風に映っているかを思う。そこに罪の自覚が生まれてくる。キリスト教は、罪の自覚と、悔い改めがなければ成立しない。仏陀の教えと、イエスの言葉は、同じである。そして、仏教徒キリスト教徒も同じように、断食をし、祈りをし、施しをする。しかし、その善行が、罪ゆるされた者としての感謝の行為として行うのか、少し極端な言い方で酷かもしれないが、世渡り上手の見本としての行為になるのか、

私たちが主に問うてみなければならないことがらである。・・・・・

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人の回心には「神秘体験」が伴う。キリストにある偉大な魂は必ず、この体験をしている。どこかで、どこかで、神に出会っている。あのサムエル少年に「サムエル」。「サムエル」と主が呼ばれたように、かたちこそ違うかも知れないが、主は、召し出そうとする者に、お声をかけられる。それは、しばしば、細い声だと言われている。なぜ主なる神はその偉大さにもかかわらず、「細い声」なのか。それは、備えのできている者だけが聞こえる「声」なのだろう。

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お嬢ちゃんしばらく・・まぁ、まぁ、お嬢ちゃんなんて機嫌を取っても駄目よ・・ご無沙汰だったね・・どこをほっつき歩ていたの?・・ユウチュウブから賛美歌をシェア出来たよ、いずれブログも音楽入りになるかもネ・・あてににしないで待ってるわ。