イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月22日(木):日本人の回心 (2) 植村 正久

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安政5年、千五百石の旗本の長男として生まれ、11歳で維新の改革に会い、彼の家

は多くのものを失って上総東金の旧所領に身を寄せ13歳で志を立て、再び家名をあげ父母の心を安んじ、自分も天下に名をなす者となろうと、一大決心をして立身出世の手段となる英語を習うために横浜に出て来た。宗教に関しては、植村家は神道崇拝の家系であり、自らも母のすすめにより軍神加藤清正公を拝んでいた。それは清正が鍛冶屋の倅から身を起こし、武勲を立て歴史に残る武将になったからである。自分の貧しい境遇と立身の志が巧みに信心と結びつき、少年時代の夢となっているのを発見することができる。・・・・・・・・

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けれども、バラの英学院に入り、書生たちに儒教や軍神崇拝は、女らしい迷信であると軽蔑され、毒饅頭をを食うて死んだ奴が何故軍神の資格があるのか、また過去の人間を神として拝むなど愚の骨頂であると論破され一言も反論できず、さてはしばしの迷いであったかと清正公参拝をやめてしまった。英語の勉強が進むにつれて、宣教師の

Only one God という言葉は、彼を驚かせ、4失望の故に中絶していた信心が再燃し、「人情から言っても、道理から言っても、真に真理に違いないないと思われる天の父を知り、その日のうちに天にいます神様祈ることが出来た」。このあたりの記録にはいささか論理の飛躍を感じるが、彼の信仰が急激に深まったことを意味している。さらに精神的変化を・「私の野望が急速に変わってゆくのを知り、もはや成功を望まぬようになり、短期間中に牧師になろうと思った。・・・これは新しい回心の奇妙な経験であった」との告白が、「回心の回顧」という英文の中に見られる。・・・・・・

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そして16歳の1874年、明治7年、宣教師バラによって、洗礼を受けている。この天父の認識は彼をして世界の神秘にふれさせ、神ありてわれありとの人生観の確立と共に、このすばらしい真理を伝えることは、我が人生の使命であるという体験が伝道者への召命となり、回心の過程で召命をともなったケースを植村においてみることができる。実に、一生ゆるぎない伝道者としての使命は、この時の体験をして与えられたのである。洗礼の段階では、罪、キリスト、十字架という信仰の中核的言葉は一向に見当たらず、日本的信心から唯一神である天父への回心であったことが明らかである。その場合、儒教的教養を持つ武士道の忠誠心は、天父への絶対服従という厳しい形で昇華されているように思える。

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・・・・一つの罪意識との対決・・・・

信仰者にとって、どういう形で自分の罪意識との対決が起こるかは重要な問題で、罪意識との深い対決なくしては贖罪信仰もそれの伴う復活信仰も決してリアルな意味で体験できるものではない。この意味で罪意識の自覚と、それからの解放、一神教信者のもつ棄教の可能性を救い、さらに深い信仰へと導く大切なポイントである。さて三宅雪斎という人は、随分言いたいことを言った人のようで、植村正久を評して「あの顔はヤソの顔ではない」とか、「酒はと問われると、一升くらい」と答えたとか、また、自分の乗った人力車の車夫が他の車夫と喧嘩をすると降りて行って他の車夫を殴りつけたということが伝えられている。これらのことから察すると彼は多分に血の気の多い人物であったと思われる。・・・・・・・・・・

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けれども、1887年頃に自らに決定的罪人としての自覚を持たされる一事件が起こっている。それは末弟、甲子次郎が謀殺罪に問われて横浜で死刑になると悲しい出来事があり、弟の罪に泣くと共に、われもまた殺人者と同じ血を心中に宿していることを思い、もし、信仰が与えられていなかったなら、自分の生涯のわからなかったこと、「神はこの不忠なる穢れたる弱者をもその恵みによって、ごようの器となし給う」と感謝し、家族一人一人この罪の血が我が家の血であることを教え、また、自ら罪人のかしらとして認めキリストのゆるしの信仰を深く味わうことが出来たのである。このような贖罪体験は、倫理的宗教や政治的救済手段あ高度の文化生活から来るのではなく、十字架に登りて自らの命を罪に苦しむ世人のために与えられたキリストからのみという信仰に彼を導いたのは、おそらく30歳ころであったと考えられる。

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・・・・むすび・・・・

以上は神認識の体験と思われるものである。後年回心について、「パウロのように一回的に決定するものもあるし、必ずしもそうでないものもある」と語ったことと、先の神認識の事情を合わせて推察すると、彼の場合はパウロ的回心ではなく、やはり明治初期の信者がたどった道程、つまり武士道的、儒教的、多神教的伝統から、Only one God

である天父へのプロセスを経たものとみるのが妥当であり、彼自からもこれら日本的諸伝統を、「日本に賜った旧約」として理解し、真の宗教はキリスト教であると考えていたのは明らかである。・・・・・・

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しかし、肝心な罪意識については記録が少なく明らかにするのは困難であるけれども伝道者としての救霊活動の中にまた一個の人間として悩みの中に罪意識も深くなり、次の如く告白するようになっている「旧き人はキリストと共に死して、今は全く新しき生活に移りしなり、罪悪を重ねたるわが力はみるに足らず・・・キリストわがうちに活く」とは、自己を罪人と自覚し、かかる自己もイエスの十字架の業によって救われ、今や復活の主と共に生きているという実験であった。このようなキリスト論的回心は、洗礼を受けてから相当後のことであったことは確かである。この事実を持つか持たぬかは信仰上見逃すことの出来ない点であり、近年土着問題が神学の、一分野として取り扱われているが、もし罪意識との対決がそれぞれの信者のここ悪露の深みにおいて問題とされなければ、洗礼を受けて贖罪愛犬を持たない名目上の信者となってしまい、棄教のあやうきにさそわれる可能性を多分に持つことになる。・・・・・・・・・・

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過去の歴史も、今日の伝道界の現実もそれを物語っている。私は成熟した信仰は、神認識、罪意識の自覚、贖罪信仰、復活信仰、再臨信仰へのプロセスと取ると考えている。それ故、信仰が本当に自分の信仰として土着するか否かは、実に自己の罪意識の自覚と、その罪を贖罪信仰によって克服することができるかにかかっていると考えている。

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