イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月21日(水):日本人の回心 (1) 窪田 空穂

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・・・・生い立ちと恥の自覚・・・・

明治10年長野県に窪田庄屋治郎、母ちかの次男として生まれた。家庭の事情について、「次男の私は分家するか、養子にいくか、あるいは学業によって自活の道を立てるか」

と考え、自分の能力にある程度の自信を持ち、父の認印を盗用し無断で松本中学の入学試験を受け合格したり、また家出をして東京専門学校(早稲田大学)に入り学問で身を立てようとした。ところが入学後、「私はしだいに、自身に絶望を感じ、青年時代の初一念が、自身に対する幻想で、自分は学問には堪え得ぬ者だと絶望した・・・従来、思っても見なかった深刻な死活問題となった」(私の履歴書)と、自己の能力に疑問を感じ学校をやめて、大阪の米穀仲買業に奉公した。母が死亡した時に実家へ帰り、父の計らいで近村の村上家へ婿養子になったが、半年足らずで帰って来た。・・・・・・

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その理由について、「私は妻と二人で一つの炬燵にあたっていた。妻は炬燵の中で、私の手に触れ、何かを渡そうするようである。・・・なんだろうと見ると五円紙幣であった。私の小遣いに銭を秘密に渡そうとしたのである。私は一種の恥を感じた。本能的に妻の手に返すと、妻はつと炬燵を出て、小走りに両親の部屋へ駈け込んで、戸を閉めて開かなくした」。と書いている。この事件は家庭問題に発展し、「私は養家にいるのにい堪え得なかった」。父の死後23歳で実家に帰った。・・・・・・・

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・・・・懊悩からの解放・・・・

以上青春の出来事を通して、彼は恥の自覚を持ったのであるが、その内容を分析してみると次のことが浮かび上がってくる。その第一は、「私など20歳近くになっても目的が定められなかった」と、精神的挫折を体験したことであった。第二は、「私はまた、過去の行為の自責にとらえられ、それが前途を遮る壁でもあるかのような感情を抱いていた」。と、置き去りにした若い妻のことを思うている。彼の短編小説「無言」の中に、四年前一度妻とした養家の娘のお澄に出会って激しい動揺におそわれたと書いている。

これらの重なった出来事によって、「私は長い間、自分の今歩いている路は誤った路ではないかという疑問をいだいて、そのためにえたいの知れない憂愁を感じていた」と、

深い悩みに陥り「おれはこんな心で、ここに、こんなことをしているべきでない。こんな心をどこかへもっていくべきだ、どこかへ」と、激しい求道心を起こしている。・・

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こうした状況で植村正久の教えを受けるようになったある時、「神は終わりまで試みにあわせ給わず」との一句が、「一条の光のように私の胸に差し込み、私の前途を遮っている壁を突き破り・・・暗さが消えて、俄かに明るくなったという宗教体験をした。これは「得体の知れない憂愁」の心に差し込んだ光としての神体験であった。この結果、

「心の眼の前に明るい広い路が現れて来たような感が起こり、自身のことを思うことが少なくなった」と、彼の清秋の迷いと恥から来る憂愁の自己を、この神体験を通して克服することが出来た。・・・・・・・

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・・・・空穂に映じた植村正久・・・・

彼は植村正久を「わが国のキリスト教界を代表するずば抜けた牧師のうちの一人」と孫尊敬し、植村正久以外の牧師の教えを受ける気にならなかったようである。かれの作品の一つに「今の世の大きなる人この眼もて見ぬとよろこびその夜を寝ず」と大宗教家なる植村を詠んでいる。彼は植村の特徴を「先生は訥弁であった。言葉が続かず、一句、一句、絞り出して、信者にぶっつけるような説教で・・・私などは初めて聞く者の胸に、不思議な力をもって突き刺さってくるのであった。私は、これほど力のある言葉は聞いたことがない」と、宗教家としての力に感銘している。そして明治37年、28歳にして「このことはわたしにとっては重いこと」と述べ、柳町教会で植村によって洗礼を受けた。しかし、受洗諮問会をして、「私は黙礼をして起った」というように不感が胸に満ちて教会を出た」と、宗教体験を信条によって規制しようとすることの空しさを感じている。。以来3年間、毎日曜日に教会に出席したが、新会堂が出来た時は「私は新牧師にあき足りない感じがした。」しかし、「先生の後を追って富士見町教会へ説教を聴きにいくのは、新牧師に対してできない」という日本人固有の義理の世界に足を取られて、「ついに足遠くなってしまった。哀しい成り行きであった。」と、教会から去った事情を述懐している。

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こうして義理人情にとらわれた信仰放棄はかなりあったようである。空穂は教会を離れても、彼の処女作「まひる野」を出版した時に、「私は予想する読者は一人もいなかったと言えるが、一人植村先生だけであった。先生が文芸の鑑識に秀でていることは熟知していた」と言うように、植村はいつも彼の胸中にあったようである。そして大正14年植村が逝去した時に、「動き出す霊柩車を拝した時は涙が零れ落ち・・・「先生をしりまししはこの我の生涯の上の大きな事なりき」と彼の恩義に謝している。・・・・・

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・・・・後半の生涯・・・・

早稲田大学復学後、与謝野鉄幹の「明星」等に投稿し歌人としての道に進んだ。卒業後は電報新聞の社会部記者、短歌欄の選者となったり、また女子美術学校の講師に就任したが、後に彼の師坪内逍遥の推薦で早稲田大学の国文科教授となり姉弟の教育にたずさわった。彼の作品、すなわち歌集、小説、古典研究、随筆等の労作は全集29巻におさめられ、世にその評価を問うている。家庭的には婿養子に行ったのをはじめ、第二番目の夫人には死別し、三番目の夫人(前妻の妹)とは離婚し、四番目の夫人と結婚した。この生涯を、「私には生存そのことが幸福だったとは思えなかった。…生存は我慢の連続だと感じていた。・・・この心持ちは緩和されてきた。自分によってではなく宗教をのぞくことによって・・・私には日本キリスト教と仏教の禅とであった」。と、「私なりの救い」をもって生きたのである。・・・・・・

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そして晩年には、「九十を超えし翁に何あらむ、余生なれば静かに生きむ」とその心をうたい、昭和42年4月12日、91歳で心臓衰弱のため死去した。・・・・・・

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・・・・むすび・・・・

彼の回心の基調には、「無目的の自己」と「過去の行為の自責」とから来た青春の懊悩が、植村のもとで「身を神の立場に立たせ、神の眼に映る自分たち人間の現状を反省する」という神論的理解に達して、これを私なりの救いの境地と表現している。確かにこうした神理解もあるが、キリストという歴史的仲保者を持たないから一歩間違えば邪道に陥りやすい。神の啓示者イエス・キリストに現わされた救済の定型は、自己の罪意識の自覚。イエスの復活による自己の死の克服。高くあげられ神の右にてこの世を支配しておられる現在のキリスト。最後の審判者としての約束のために再臨されるキリストへと深くかかわっていくことが、キリッスト論的定型である。この定型からみれば、空穂の信仰は一種の未定型的信仰であった。日本人の信仰者の中には、案外未定型形の信仰者が多いように思う。

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これからしばらく「日本人の回心として」何人かの人を取りあげていきたい。明治期以降洗礼を受けた文人、知識人等決して少なくはないが、信仰を全うした者は少ない。そこには、空穂の場合のように、仏教文化に影響されることが多い。このことについてはこのシリーズを終えてから書くことにする。・・・・・・・・・

竹内先生の奥さま。弘子さんが、難病で入院中。ちえ子と二人で祈っている。

公夫兄弟の血尿が収まらない。

穂の仕事も人手不足で大変。

順子さんが、薬局を辞めた。少しゆっくりすればいい。この前の礼拝で、嫌いな人のために祈りなさい。とメッセージした。シマガミのために祈ったかな?・・・・

FBで難病の人のために祈るグループに誘われたが、断った。自慢じゃないが、恩寵教会は難病で溢れている。36年難病の娘、胃瘻で寝たきりの夫人、ハンセン病の家族、これ以上は書かれないけど、まだまだある。そのように恵み豊かな教会なのです。ううん?。牧師も怪しいって?。(実は、脳無い症、誰にもいうな・・・・・)