イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月20日(木):聖書から見た現代 (由木 康)

今の時代はイエスの昇天から再臨までの中間期であり、一言でいえば、教会の時代であります。イエスはその十字架と復活とによって悪魔の勢力を打破し、その支配下から人間を解放されました。これは決定的事実であり、神の救いの歴史の頂点であります。この頂点はすでに確保されましたが、悪魔はなおもしつこく逆襲してまいります。いわば決定的な戦闘は行われ、勝敗は決したにもかかわらず、小競り合いは依然として続いているという状況であります。このことを信仰をもって認識し、イエスの十字架と復活とによって神の勝利はすでに決定していることを信じと共に、来るべき最後の勝利を待ち望みつつ戦い続けていくのが、地上における教会の任務であります。一般の未信者はこのことを知らず、したがって悪魔の力に敗れやすく、絶望や虚無に陥りがちですから、教会はそれらの人々を迎え入れて、彼らを共同の戦線に立たしめねばなりません。それが今の時代における教会の役割です。

 また今の時代にはキリストの支配が教会を通して一般の世界に行われます。キリストは十字架と復活とによって父なる神の下に帰り、すべての者を支配する力をお受けになりました。

 『わたしは天においても地においても、一切の権威を授けられた」(マタイ28:18)パウロもエペソ人への手紙の中に記しています。

 『神はその力をキリストのうちにはたらかせて、彼を死人のうちからよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物のかしらとして教会に与えられた』(エペソ1:20~22)

 これに類することは新約聖書に数多くしるされており、初期の信者たちがキリストの支配という事に深い関心を持っていたことを示しています。その最も特徴ある表現は「キリストは神の右に座しておられる」というのでありまして、この句は新約聖書の中に二十回近くも繰り返されています。また、もう一つの簡潔な表現は「キュリオス・キリスト」(キリストは主である)というのでありまして、これは最も原始的な信仰告白の一つであると考えられます。キリストは神に敵するもろもろの力に勝利を得て、今やすべての者を治め、すべてのものの主と崇められているという信仰ほど、今の中間期の合言葉としてふさわしいものはありません。現代はキリストが主として崇められている時代であります。

 しかしキリストが世界の主であるということは、あくまで信仰上の真理であって、理性的な事実ではありません。それは信じられるだけで、証明されません。現実の世界は政治家や資本家や独裁者や、時には悪魔によって支配されています。そのような世界の中でキリストの主権が確立されいるのは教会です。教会はキリストのからだであるから、たといどんなに弱く貧しくても、キリストを宿し、キリストを中心としています。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)というイエス・キリストの約束は、教会の中で実現し、教会を通して外の世界へも及んでいくのであります。

 キリストとは勝利の主であるという信仰は、古代においては勿論、中世においても、近世においても、神学の重要なっ主題の一つであり、キリスト者の勝利の原動力でありました。しかるに近世後期、特に十九世紀以後は長く忘れられていた感がありました。しかし、第二次大戦以後、再び取り上げられ、今やヨーロッパ神学の主要な課題の一つとなっています。ヴィサー・トゥフトの「キリストの王権」という書物は、それをテーマとして最近の神学界の動向を概説したものです。現代はキリストの支配が教会を通して行われている時代です。

(由木 康師 東京山の手教会で半世紀以上、伝道と牧会に当たり、パスカルのパンセの本邦最初の全訳を公刊する.掲載の文はその説教集「この人を見よ」より抜粋。他に

「キリストにならいて、イミタチオ・クリステイの翻訳者でもある)