イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月2日(月):十字架上の言葉 (7)

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『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』(ルカの福音書23章46節)

マタイとマルコとは、「イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られた」としるしていますが、ルカがこの言葉を書き残してくれました。これが十字架上の最後の言葉です。最初の言葉が「父よ」という呼びかけで始まっていたように、最後の言葉も同じ呼びかけで始まっています。「わたしの霊をみ手にゆだねます」は、詩篇31篇5節そのままですが、単なる引用ではなく、イエスの心からあふれ出た祈りです。この祈りには、父なる神への信頼の念が脈打っています。苦痛と暗黒とは既に過ぎ去り、神の光が差し出ています。激しい雷雨ののちの澄み切った夕空のように、イエスの心は絶対的信頼の安けさに満たされたのです。なんという美しい平安な臨終の言葉でありましょうか。これは来たらんとする復活の朝の明るい希望に満ちた序曲であり、まえぶれであります。

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結語

以上が、イエスの十字架上の七言です。それらを通観して、私たちはどんな感銘を受けるでしょうか。思うに、その感銘は、私たちの魂の状態や要求のいかんによって異なるでしょう。しかし、十字架上の七言を真剣に考察する人は、誰でもそこには英雄的死とは違ったもの、すなわち、理性につまずきになる信仰の事実を認めずにはいられないでありましょう。あの自然に帰るべきことを主張したジャン・ジャック・ルソーすら「エミール」の中で、イエスの死に言及して言っています『我々は、友人と心静かに哲理を論じつつ死んだソクラテス以上に平安を願うことはできない。また全民衆の侮蔑と嘲笑と呪詛のただ中で、苦悩のうちに死んだイエス以下の死を願うことも出来ない。そのような恐ろしい苦悩のただ中で、キリストは自分の残虐な殺害者たちのために祈りをささげた。しかり、ソクラテスの生と死とが哲人の生と死であるとすれば、キリストの生と死とは、まさに神の生と死である』と。ルソーが言っているように、イエスの十字架の死を神(救い主)の死と解し、しかも、自分の罪のためのあがないの死と信じるところに、神の恵みの世界は開け、魂の救いはえられるのであります。(以上一言より七言まで、1963年4月7日:由木 康牧師説教集より)・・・・・・

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これまで、お読みいただき感謝します。先生の説教の中にはやはりパスカルの影響が見え隠れしますが、それだけに難解な部分もあったかと思います。自分も100%理解できたとは思いません。しかし、深い信仰者の姿勢を見る想いがします。また、このイエス様の最後の言葉について、W・バークレーがその書の中で『どんな偉人でもその最後の言葉には、「飾り」があるものだがイエスの言葉にはそれがない』と書かれてありました。ほんの少しその意味が分かるような気がします。

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