イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月27日(火):十字架上の七言

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エスの十字架は特殊なものでした。十字架にかけられた人々はたいてい重い罪を犯して、その報いを受けたのですが、イエスの場合はそうではありませんでした。その敵が上げた罪状は、安息日を守らなかったとか、神殿を冒涜したとか、自分を神の子と言ったとか宗教上の事柄でありまして、刑事上の罪ではなかったのです。それどころか、イエスはいたるところで正義と愛を行って来た人でした。貧しい人々に福音を伝え、病める者を癒し、見捨てられた人の友となられました。正しい世の中であったなら、むしろ表彰せられていたはずです。

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しかるに、ユダヤの支配階級とローマの官憲と当時の民衆とは、イエスを罪に定め、二人の強盗の間に十字架につけました。そして、ローマの兵士らはイエス上着をくじ引きにして彼を侮辱し、祭司や学者は「もし神の子なら、十字架からおりてこい」とののしり、一緒に十字架につけられていた二人の強盗すら、彼をあざけりました。これが普通の人間であったら、うらみ骨髄に達し、憎しみと復讐心とに燃えたに違いありません。それではイエスの場合はどうでありましたでしょうか。そのときのイエスの心境を伝えているのが、いわゆる十字架上の七言であります。福音書には、イエスが十字架上から発せられた言葉が七つ記されています。マタイとマルコに共通のものが一つ、ルカに三つ、ヨハネに三つ。それらは互いに補い合っています。これらの七つの言葉は七つの窓です。それらの窓から、イエスの臨終の心という荘厳な宮殿の内部をのぞき見ることができます。臨終の言葉は誰のものでも尊重されますが、十字架上の七言はとりわけ尊い。そこには人類の救いが成し遂げられた過程が表れているからです。ゆえに、それらの発言の順序に従って取りあげ、出来るだけ簡単に解説していくこととしたいと思います。・・・(由木 康 著 この人を見よ)

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今日からしばらく、由木師のテキストに従って、十字架上の七つの言葉について、一つ一つ見ていきたいと思う、すでに十字架上の七つの言葉についてこのブログで書いてあるが、もう一つ別の角度から、このことを学んでみることにする。・・・・・・・

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午前中に図書館へ行っていたのだが、隣の教会の金田長老が具合が悪いので市民病院へ行ったと連絡があった。すぐ駆けつけると、奥さんが心細そうにしていた。受付と交渉し、すぐ診察してもらうように交渉し、診てもらった。検査があって、結局入院ということになった。前から気になっていたが随分弱ってきていた。

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