イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月23日(金):パラダイスの約束

『十字架にかけられていた犯罪人ひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もう一人のほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときは、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスに居ます」』ルカ福音書23章39節~43節。

官憲はイエスの十字架を、見知らぬ二人の囚人の間に立てたが、これははっきりとした目的があった。それはイエスを強盗どもと同列に置くことによって、群衆の直前で彼辱めるためであった。この罪を悔い改めた盗人についていろいろな伝説が生まれた。この男はデスマスの名で呼ばれている。いろいろ伝説はあるが、最も美しい伝説によると、聖家族が幼いイエスを連れてベツレヘムからエジプト逃げる途中、盗賊に襲われた。イエスは親切な若者に救われたが、この青年は盗賊の首領の息子だった。幼子イエスがとても可愛くて、その若い山賊はさすがにその子に手をかけることができず、こう言いながら放してやった。「子供の中で一番幸せなヤツよ、お前は。そこでだ。もしお前が俺に恩を売る時があったらよ、この俺を思い出すんだぞ。忘れちゃいやだだぜ、このこともな。さ、もう行きな」。こうして幼子イエスを助けた山賊の若者は、こともあろうに、カルバリの十字架の上でイエスに再会、今度はイエスが救った、という次第である。・・・・・・・

 パラダイスという言葉は、囲いのある庭と言う意味のペルシャ語である。ペルシャの王がその臣民に特別な栄誉を与えるときには、その者その庭にあずかる者とし、王と共にその庭を散歩する栄誉を与えた。イエスが悔い改めた強盗に与えたものは、不死以上のものであった。彼はその男に、天国の庭園を一緒に歩く栄ある地位を約束したのである。・・・・・・・

この物語の教えようとしていることは、キリストのもとに帰るには遅すぎることはない、ということだ。他のことでは、「もう、その時は過ぎた。わたしは余りに年老いてしまった」ということは当然あろう。しかしキリストのもとに帰るとこととなると、そんなことは言えない。人間の心臓が鼓動しているかぎり、キリストの招きは続いている。・・・・・・・・・

ある男が馬から落ちて死んだ。詩人はその男のことをこう書いている。

   あぶみから地面に落ちる間

   われ慈悲を乞いこれを得たり。

命ある限り希望があるとは、この場合、文字通り真理である。

(W・バークレーの解説)

このデスマスの伝説は、どこかで一度書いているが、若干、言葉使いが違うが、内容はほぼ同じ。今回はルカの福音書に記されているものを、載せた。