イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月14日(水):この人を見よ エッケ・ホモ

f:id:dotadotayocchan:20200328094203j:plain

『イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った「見よ、この人だ」』ヨハネ福音書19章5節。

これはイエスローマ帝国の総督ピラトの裁判を受けられた時の記事の一節です。ユダヤ人がイエスを処刑してもらうために。

これはギリシャ語で「イドゥ・ホ・アンスローポス」で、ラテン語で「エッケ・ホモ」となり、さらに日本語では普通「この人を見よ」と訳されて今日に至っています・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200325185320j:plain

この言葉の注解者(アボットなど)は、「この理想的人間を見よ」という意味に解しています。しかし、それは後で、キリスト教的解釈を施したもので、その本来の意味ではありません。それを言ったのは、イエスの弟子たちではなく、ローマの総督ピラトであり、その動機はユダヤ人たちにイエスを許させようとすることにあったとするならば、この言葉の本来の意味は別のものであったに違いありません。・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200321155754j:plain

事実、大多数の注解者たちはこの言葉を「このみじめな、あわれな人間を見よ」という意味に解して、それが今の定説になっているのであります。・・・・・・

つまり、ピラトは自分の命令によって鞭うたれ、部下の兵士によっていばらの冠をかぶせられ、王様の着る紫の上着を着せられ、平手でうたれ、なぶりものにされているイエスを、ユダヤ人の前に引き出し、彼等に多少の同情の念を起こさせ「もう、それくらいでやめよ」と言わせようとして、「この人を見よ」と訴えたのです。いわば、この苦しめられ、辱められている人を見よ、この受難のイエスを見よ、というのがこの言葉の本来の意味であったのです。・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200328092141j:plain

ところが、ユダヤの民衆はこのようなイエスの姿を見ても、同情の念を起こさず、残忍な要求をひっこめようとはしません。かえって支配階級にそそのかされて、その要求をエスカレートし、「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫び続けました。そこでピラトは土着民の意向に反するのは得策ではないと判断し、政治的な判断から心ならずも妥協して、イエスを群衆の手に引き渡しいました。そのようにしてイエスの十字架刑は決定したのであります。・・・・・・・

f:id:dotadotayocchan:20200326200137j:plain

従って、イエスを十字架にかけた責任はピラトにあるが、実はピラトはイエスの無実を知り、彼を許そうとしていたので、イエスの十字架の真の責任者はユダヤ人たちであり、とりわけ群衆をそそのかしたユダヤの支配階級であったというのが、ヨハネ福音書だけでなく、他の福音書にも共通していることであります。このため、後にユダヤ人が迫害される一因となるのですが、そのことは別問題として、イエスの十字架刑が決まるまでのプロセスの中で言った「この人を見よ」という言葉は、ヨハネ福音書だけに記された簡潔で意味深長な発言として千金の重みをもっています。これは福音書の初めに書かれている「見よ、神の子羊」という言葉と好一対をなすものです。いずれも受難のイエスを指示しており、ヨハネ福音書の重要なテーマというべき言葉と言えるでしょう。

f:id:dotadotayocchan:20200329150626j:plain

『エッケ・ホモ』と言いう題で本を書いた人がその後、二人いると言います、一人は、イギリスの歴史家、ジョン・シーリ(1834年~1895年)。それにもう一人は、フリードリヒ・二ーチェ(1844年~1900年)。

ニーチェがその生涯に書いた、自伝ですが。これは彼がその波瀾に富んだ一生を振り返って、自分自身と業績とを率直に、しかも激越な調子で述べた本です。すなわち、自分はなぜこんなに悟った人間であり、利口であり、よい本をたくさん書いたかということを堂々と述べています。従って彼の思想と生活の総決算ともいうべきものです。この本は彼の死後に出版されましたが、その原稿を書き上げた直後、彼は精神錯乱に陥り、十年以上精神病院に収容された後、寂しく世を去りました。・・・・・・

ニーチェの生涯はさておくとして、

彼は「エッケ・ホモ」という語を自分に適用しました。しかし、この言葉は、超人になれないで、狂人になったニーチェを指示するものではなく、彼がひそかに羨望したキリストに帰すべきものであります。イエスは進んで民衆に近づき、彼等のために命を捨てた愛の高さと、権力や支配の偉大さではなく、奉仕と犠牲の深さと、律法にも習慣にもとらわれない絶対の自由さの故に、「この人を見よ」と言われるのに最もふさわしいい人です。これこそまことの超人、人を超えた人であります。

f:id:dotadotayocchan:20200401074930j:plain

 

f:id:dotadotayocchan:20200905180604j:plain

今日のお話よくわかんないわ・・ニーチェさんのとこちょっとむつかしね・・

「神は死んだ」って言ったの彼でしょ?。そうだよ。でも、「いない」とは言わなかったのさ。そこにニーチェの悩みが隠されているんだ。