イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月1日(日):十字架上の七言 (5)・(6)

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『わたしは、かわく』(ヨハネ福音書19章28節)

苦痛の絶頂では、人は渇きすら忘れてしまいます。イエスが渇きを訴えられたことは、苦痛の絶頂が過ぎたことを示しています。その時、かたわらにいた人たちが酸い葡萄酒を差し出しましたが、イエスはこれをお受けになりました。十字架につけられた当初、婦人たちが没薬をまぜたぶどう酒を差し出した時には、それをお受けになりませんでした。それは一種の麻酔剤であったからです。しかし二度目の酸いぶどう酒は、渇きをとめるだけのものであったので、イエスはそれをお受けになりました。それを受けて、十字架の苦しみを徹底的に味わおうとなされたのです。従って「わたしは、かわく」とは、父なる神の備えられた苦い杯を最後の一滴まで飲み干そうとする意図のあらわれであります。(婦人たちが差し出した没薬をまぜたぶどう酒をお受けにならなかった、このことにイエス様の確かな御心が感じられる)

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『すべてが終った』(ヨハネ福音書19章30節)

これは「万事休す」という絶望的な言葉と混同されがちですが、実は明るい勝利の叫びです。「すべて」とは、人類の救いのわざを指しています。アダムが罪を犯して以来、神の救いのわざは族長たちやモーセ預言者たちによって徐々に準備されてきましたが、ついにイエス受肉と苦難と死とによってなしとげられたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、そのあがないのの頂点にほかならないのです。・・・・

預言者イザヤは、来るべきメシアのことを予言して、「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」(イザヤ書53章11節)と言いました。なぜなら、人類の罪のために苦しむことがメシアの使命であり、苦しむことによって彼は人類を救うからです。この預言のように、人類の罪のために苦しまれたイエスは、その苦しみを貫徹したことに心から満足を覚え、「すべて終わった」と言われたのです。これはあがないのわざが成就したことに対する満足と感謝との叫びです。

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