イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月26日(土) :人をさばくな。

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『人をさばくな。自分がさばかれないためである』マタイ7章1節。

この聖句ほど、広く引用されている聖句も少ないと思います。しかも、一般に真理を求めようとしない人の間でも、この聖句はしばしば引用されているようです。そして、またこの聖句ほど、極端に誤った用い方をされている聖句もないようです。・・・・・・

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一例をあげれば、次のような解釈を下している人がおります。すなわち、

エスはこのみことばをとおして、私たちに、他人の生活や、その信仰に関しては何も審判的な意見を述べてはならない、という律法をを与えておられるのだ、と。だからある人たちを神の子と呼び、他の人々をこの世の子らとみなすことは、単に行き過ぎた考え方であるばかりでなく、「人をさばくな」 とのイエスのご命令に、あきらかにそむくことであると言っています。・・・・・・・・

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エスはこのような目的で、このみことばを語られたのでしょうか。少しでも聖書に親しんでいる人ならば、誰しも、このような解釈は、みことばの正しい理解に基づいたものではない、ということが分かると思います。イエスは、このみことばを語られた直後、弟子たちに、偽預言者に心せよとの警告を与えておられるのです。・・・・・・・・

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だからこのみことばをとおして、イエスが私たちに教えておられることは、わたしたちは、他の人が神とどのようなかかわりについて、正確な意見を持つ権利があるばかりでなく、その責任があるということであります。

これがみことばに対する弟子たちの考え方でありました。ヨハネは、聖書を読む人たちに、その霊が神からのものであるか否かを証拠だてることを、勧めております。また、パウロは、テモテとテトスに、長老を任命するときは、まず、その人たちが立っている神と人とに対する関係を調査することの必要性を説きました。

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しかし、この聖句以外の聖書を見てもわかるように、イエスがここで強調られることは、私たちが他の人をさばく時の、心の態度であります。私たちはなぜ他人の失敗を、とやかく言うのでしょうか。他人をあざけることによって、自分をえらくするためでしょうか。もしそうだとすれば、イエスがさばくなと戒められたあのさばき方をしているのです。(O・ハレスビー著 みことばの糧)6月26日」

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